デスクの独り言

第101回・2012年7月9日

冤 罪 

 冤罪。何とも嫌な響きを湛(たた)えた言葉だ。広辞苑には「無実の罪。ぬれぎぬ」とある。ふだんの生活の中では、それに直面することなど万に一つもなかろう。しかし、実際には誰もが隣り合わせで生きている、とも言える。

 なぜ、冤罪などというおぞましいものが、この世に存在するのか。理由は明白だ。容疑をかけたり裁くのは神にあらず、生身の人間にほかならぬからであろう。

 あるいは冤罪かも知れぬ、とずっと気にかけている3人がいる。この3人をコラムで取り上げるまでには長い時間を要したが、社会に投げかけることなくこのまま放置するのに精神的な限界を感じ、一石を投ずることにした。

 事件発生の新しい順から紹介してみたい。大館新報社北秋田支局元記者の田中長光被告(42)=大館市。23年6月8日午後11時から9日午前2時ごろまでの間、支局事務室の机に保管していた現金117万6,780円を盗んだ、とされる。支局駐車場に置いていた所有車両内のリュックサックの中から、現金が見つかった。大館簡裁での一審で懲役1年の実刑判決を受け、「自分は盗んでいない」と一貫して否認し続けている彼は控訴。

 さる6月26日に行われた仙台高裁秋田支部での控訴審判決公判では、一審判決は重すぎるほか、すでに社会的制裁を受けているなどの理由で、懲役1年、執行猶予3年を裁判長は言い渡した。なおも判決を不服として彼は、今月3日付で最高裁に上告。

 田中氏とは、以前勤務していた地方紙の記者時代に、何度となく取材先で顔を合わせ、言葉を交わした。ややいかつい風貌とは裏腹に、物腰は柔らかく、話しぶりも穏やかな人物だった。当コラムの筆者が約20年の記者生活から、唐突に広告部門に配置転換された後、彼がくれた言葉を今でもはっきりと憶えている。

 「あなたは、広告にいる人でねえ。すぐ、(記者として)戻って来るんだスべぇ?」。口にした当の本人は、自分で放った言葉を忘れていることが、よくある。しかし、言われた本人は相手の言を長い間記憶していることが、往々にしてある。彼がくれたのはそうした類の言葉で、広告に飛ばされて腐っている時だっただけに、胸中の悔しさを理解する彼の思いやりのようなものが身に沁みたのを鮮明に憶えている。

 個人的な生活事情を背景に、田中氏は生活が困窮して手をつけてしまったのか、と逮捕直後には考えた。彼とは1度も酒を酌み交わしたことはなく、どの程度人物像を知っているかと言えば、取材先でたびたび顔を合わせただけではいささか心もとない。

 引っかかるのは、彼が一貫して無実を主張し、「第3者が自分を陥れるようとしてやったこと」と訴え続けている点である。控訴審判決でも裁判長は、第3者による犯行とはきわめて考えにくい、という趣旨の考えを示し、彼の訴えをはねつけている。

 重要なのは、その点であろう。第3者がやった「形跡」がない一方で、彼による犯行を示す明確な物的証拠もなく、状況証拠だけを積み上げている。つまり、「映画や小説じゃあるまいし、おめえ以外、誰がやったと言うんだ。実は真犯人がいて、盗んだ後で恐くなっておめえのリュックに入れたとでも言うのか?」的な発想。

 とはいえ、田中氏の主張が真実、つまり冤罪だとした場合、その「第3者」に行き着かない限り、「冤罪」は「冤罪」足り得ず、最高裁の判断も大方、目に見えている。あるいは、社会に明るみにされているのが「事実」で、田中氏が悪あがきをしているにすぎないのか。それを知るのはこの世に彼1人だ。または「神のみぞ知る」の領域となる。

 引っかかっていたのは、もう1点。本当に物的証拠はなかったのだろうか。事務室の机の引き出しを開けて札束を入れた封筒に彼が手をかけたなら、指紋が残っていたのではないか。よしんば、札束がむき出しだったとしても、である。

 県警の科捜研は、明確にそれを分析したのか。用意周到に手袋を履いての犯行なら特定はむずかしいが、直接手で触ったとすれば容易に指紋を検出できるはずだ。

 彼の指紋などなく、もし第三者の指紋が付着していたなら、冤罪にたどり着く足がかりにもなり得る。現金という性質上、多数の指紋が付着していたとしても、"近場"の人間がいないか、1件、1件調べていくのが刑事に課された仕事なのは言うまでもない。つまり、県警はいかほどの精度で捜査をしたのか、ということである。物的証拠を積み上げもせず、初めから「おめえが犯人だろう」では、話にならない。そうして、警察、検察、裁判所の汚名たるいくつもの冤罪が、犯罪史に遺されてきた。

 続いて21年4月の北秋田市長選をめぐり、公選法違反(買収、事前運動)の罪に問われた元鷹巣町長岩川徹被告(63)。懲役1年、執行猶予5年の仙台高裁秋田支部での控訴審判決を、一審と同様不服であるとして彼はさる2月、上告した。

  同被告は、21年2月16日ごろと3月17日ごろの2回、北秋田市内のコンビニ駐車場などで、同市の男性支援者に現金15万円ずつを渡した、とされる。取り調べで一貫して黙秘、そして一審、控訴審で無実を訴え続けてきた彼もまた、最高裁の判断に身を委ねる。

 岩川氏に初めて会ったのは、鷹巣町(旧)の町長選に初出馬するために記者会見に臨む日だったと記憶している。運転免許証を持っていなかった彼は、事前取材で居合わせた筆者に「記者会見場に行くんだったら、乗せてくれませんか」と依頼し、クルマでほんの数分の距離ではあるが、助手席に乗せて同会場に向かった。

 政争の激しい町で初陣を飾った彼は、次々と全国に注目される高齢者福祉政策を打ち出した。無論、記事で手心を加えたことはなかったが、地元の「祭り」では複数の記者仲間とともに彼の自宅に3、4年続けて招かれて盃を傾けたし、それ以外にも"外"で何度か膝をつきあわせ、酒を酌み交わして行政談義に花を咲かせた。

 彼の政治手法は、敵対する町議らにはオーバーアクションにみられ、ついには4選を目指す15年の町長選で敗北を喫した。かつ、満を持して出馬した21年の北秋田市長選にも惨敗し、その際に発生した事件に伴う裁判で彼は、司法と対峙している。

  取り調べ段階での一貫した黙秘、裁判直後に必ず行う会見での「冤罪」の強調、そして5月にはかつて講演の講師としてみずから町に招いたことがあるジャーナリスト・大熊一夫氏による『つくりごと 高齢者福祉の星 岩川徹 逮捕の虚構』出版と、その"戦略"はいかにも緻密に計算する岩川氏らしい。加えて、どれ1つ取っても、生来の強気な性格を如実に物語っている。

 電話の履歴など事件当日のアリバイといった"物証"を武器に彼は最高裁に臨むとみられるが、一審、控訴審の不利な推移、そして実際に現金を受け取った人物の有罪が確定しているなど一連の流れからして、「冤罪」を勝ち取るのは困難を極めるだろう。無論、社会からは「やった」とも「やっていない」とも真実は見えず、それを知るのは彼自身と実際に受け取った人物だけだ。

 最後に、大仙市の保育園児、進藤諒介ちゃん(当時4つ)が暴行を受けて死亡した事件の畠山博受刑者(49)=大館市。彼は21年、最高裁で上告を棄却され、懲役16年が確定した。

 事件発生から、6年が経とうとしている。同受刑者については、事件発生の18年に「何が彼をそうさせたのか」と「母に残した言葉」の2回にわたってコラムで取り上げているため、詳細の重複は避けるが、彼は今も獄中で無実を訴え続け、支援者らも街頭でチラシを配布するなどして「冤罪」を叫んでいる。

 今回取り上げた3人の中で唯一、畠山受刑者だけは面識がないながらも、逮捕当日に母親が筆者に対して語った「『自分は何もやっていないし、これは何かの間違いだ。心配することはない』と息子は言い残して行った」という言葉が、今も耳に残る。同受刑者の無実を心から信じるからこそ、周囲の人らも貴重な時間を割いて街頭に立つのであろう。

 この事件も決定的な物証は皆無に等しく、真実は事件にかかわった彼と子どもの母親(懲役14年で服役中)以外、誰も知り得ない。当時交際相手だった母親が「息子は私が殺した」と獄中で語れば事態は急変するのであろうが、仮に真実がそこにあったとしても偽証罪で刑期を延ばしてまで語りはすまい。

 何より、畠山受刑者が証言をたびたび覆したのが、裁判長の心象を悪くした。そうした行為に出る被告は、法廷の場でなかなか信じてもらえない。この事件も、それが方向性を決定づけたと言えるのではないか。

 同3人とも実名で取り上げたが、そうでなければ切り込む意味をなさないと考える。彼らはいずれも、最後には「冤罪」をおのれ独りの力で証明しなくてはならない。世の中の大方は、彼らを「クロ」とみる。それを跳ね返して真実を突きつけるのは、暗闇で針に糸を通すよりもむずかしいだろう。真に冤罪ならば、1日も早く証明される日が訪れることを願ってやまない。