デスクの独り言

第96回・2010年10月6日

悲劇の根底 

 刑事が訪ねてきたのは、5日午後のことだった。濃紺のスーツに身をつつんだ40半ばとおぼしき彼は、こう切り出した。近くに住むおばあさんと長男の行方が分からないので、捜している。彼らについて何か知っている人がいないか、手分けして近所をあたっていると。

 大館市でも有数の新興住宅地、東台1丁目。市内の他所から転居してきた昭和40年代中ごろは、数10メートル離れた位地に1軒ぽつんと家が建っていただけで、周囲100メートルの範囲にはほかに何もなかった。その後、個人宅や賃貸住宅、アパートが次々と建ち並び、今や住宅密集地である。

 「新興住宅地」と、郡部などにみられる「部落」とでは、人と人とのつながりが明らかに異なる。新興住宅地は正面、両隣とのつきあいすら乏しい場合が珍しくない。これに対し、「部落」は近所づきあいが濃密なのに加え、集落全体が「噂」を含め、ある種の"情報"を共有しあっていると表現しても過言ではない。旧鷹巣町(北秋田市)の「部落」に住む友人は「あまりにもつながりすぎていて、息苦しい」と話す。

 つまり、「部落」では朝家を出た隣近所の人が夜戻らないだけでも、「どうしたのだろう」となる。これに対し、新興住宅地は最低限のつきあいがない限り、長期間にわたって人がいなくなっても不審に思わない傾向がある。いわば、関係が希薄なアパートなどと同様で、「隣の住人が何をしている人か、どこへ行ったのか、分からない」状態だ。

 「その人たちについて、何か、知らねぇスべが。何でもいいス」と刑事は訊いた。しかし、ここは最たる新興住宅地。数軒離れていれば、どのような人が住んでいるかすら分からず、おばあさん、長男の顔すら思い浮かばなかった。ともに応対した家人も「おばあさんは、数年前に見たきりです」と答えた。「大変ですねぇ、刑事さんも」と労うと、本来自分は別の地区を担当しているのだが、午後に召集がかかったのだという。屈強な体つきに相反し、親しみやすい風貌の刑事だった。

 唐突に、「たらた〜」と、かつて国民的刑事ドラマだった「太陽に吠えろ!」のテーマが玄関で甲高く鳴り出した。ばつが悪そうに、刑事はポケットから携帯電話を取り出し、同僚刑事らしき相手と情報交換を始めた。当時、圧倒的な存在感を誇っていた刑事ドラマを少年時代に観て憧れ、この人は刑事になる夢を果たしたのだろうか、などと余計な想像をしてしまった。「太陽に吠えろ!」を着信音にする刑事は、全国にも結構いるのかも知れないと。

 電話を切った後、話の中断を詫びて刑事は「長男のクルマはあるんですけどねぇ。2人で、どこかに隠れてるんでしょうかねえ」と、冗談じみた口ぶりで言った。「事件性がなければ、いいんですが」と力になれなかったことを詫びる思いで返すと、「本当に、そうあってほしいです」と本心と思える言を残して刑事は去って行った。

 それから間もなくのことだったのだろう。パジャマ姿で青いビニールシートにくるまれた女性の遺体を、同僚が当の家の地下室で発見した。身長は約135センチ。現時点ではまだ身元確認中だが、92歳の母親らしい。東京で働き、5、6年前からともに暮らしていた68歳になる長男の行方は分からず、大館署は死体遺棄容疑で捜査を開始した。

 その夜、現場には遅くまで車両が行き来していた。捜査車両のほか、親類縁者などと思われる。夜は空気が澄み、声が通りやすいこともあったのだろう。午後9時台、女性の泣く声が風に乗るように、数軒離れていてさえ聞こえてきた。亡くなったおばあさんにかなり近い血縁で、捜査途中で家の中に立ち入ることもできず、あまりの悲しみに涙が堰を切ったようにあふれ出たのかも知れない。

 身元の特定や死因などは、秋田大医学部できょう午後から行われる司法解剖の結果を待たないと判明しないが、血族は"誰"であるかを気持ちの中で特定しているであろう。そして、血族に限らず、周囲の誰もが憤っているのではないか。母親の遺体を置き去りにし、長男はどこへ行方をくらましたのかと。

 親類がひんぱん訪ねていたものの、長期間にわたって長男が母親との対面を拒んできたほか、今月3日、5日にそれぞれ訪問した際には長男とも会えなくなったため、不審に思った親類は5日、大館署に相談した。親類が長男に会ったのは、1日が最後。遺体から外傷らしきものは確認されていないが、腐乱が進んでおり、亡くなってから半月以上経っていると同署はみている。

 近所の住人の話を総合すると、母親はかつて趣味の舞踊を楽しんでいたが、足を負傷し、2、3年前から出歩かなくなった。長男も社交的ではなく、住民とのやり取りはほとんどなかったようだ。母親はかつて市役所職員で、それほど人当たりのいい方ではなかったと複数の住民はいう。地区町内会長は先月24日に長男に会っているほか、4、5日前にはバイクに乗る姿が目撃されている。

 それから察するに、女性が母親だと仮定して、シートにくるまったままコンクリートの上で冷たくなっている母親と、同じ屋根の下で一定期間暮らしたことになる。その間、彼はどのような精神状態だったのか。何とも思わなかったのか、あるいは涙したこともあったのか。

 「クルマは残されている」という刑事の話からすれば、鉄道など身元がばれない交通手段で土地勘のある東京に戻ったか。普通乗用車以外に、ふだん使用していたとみられるバイクがなくなっているため、それが見つかれば所在を突きとめる足がかりになるかも知れない。何にしても推測の域を出ないため、当コラムでは実名は明かさない。

 極度に高齢な肉親と暮らすには、他人に想像もつかぬ苦労や困難を伴うこともあろう。また、看病疲れもあり得る。しかし、仮にみずから手をかけたのではなかったにせよ、いかほどの苦しみがあったにせよ、唯一の家族である母親の遺体を放置することが許される道理はない。いずれにせよ「真実は彼のみぞ知る」で、長男を見つけ出せるかどうかは全国トップクラスの検挙率を誇る県警の捜査手腕にかかっている。

 100歳以上の不明高齢者が、社会問題となっている。亡き母親が白骨化した後も息子が同じアパートで暮らし、遺骨をバッグに入れて別のアパートに引っ越した例もあった。それと同様ではないにしろ、今回の事件からは似たような"臭い"が漂う。

 ひっそりと暮らしていたであろう親子。そこにいかほどの"地獄"が存在したにせよ、新興住宅地では付近住民が心から心配し、手を差し伸べることは、ほとんどない。今回のケースは決して特殊な事例でなく、新興住宅地の希薄な人間関係が悲劇の根底に横たわっているのではないか。

 それは、本県が15年連続で自殺率全国最悪であることとも、無関係ではなかろう。確かに、近所などによる「声かけ」の取り組みは自殺予防策の一つだが、地域、町内によってその"温度差"は、著しい。