デスクの独り言
                           
第9回・13年6月29日

知事と写真週刊誌

6月14日付けの「デスクの独り言」で「嗚呼、記者クラブ」というコラムを書いた。そこで長野県の田中康夫知事は今月末までに県庁の記者室から記者クラブを締め出し、これまで利用できなかったメディアや個人ライターにも広く開放することに触れた。そして、そのような思い切ったことができる背景として、彼は根本的に政治家ではなく体内に太くに流れている血が作家の血だからと論理づけ、小説家は異端的で、本来政治家が得意とする「なあなあ主義」とは縁遠い位置にいる。だから、今回のようにためらいもなく「脱・記者クラブ宣言」ができる、と結論づけた。そしてまた、記者クラブが「排他的な権益集団」になりかねないとする配慮から「脱・記者クラブ宣言」をしたことに、拍手をおくりたいという気にすらなった。

しかるに、田中知事は28日に開かれた県議会一般質問で、まったく愚かしい面を露呈している。5月発売の写真週刊誌に父親が長野県議であるという女性タレントを膝に坐らせ、シャンパングラスを手にするショットが掲載されたことに対する議員側の質問に、知事は「県の広報活動の一環だった」と答え、議員らをあきれさせたという。写真週刊誌は隠し撮りをしたわけではなく、白昼堂々、ガラス張りの知事室で「対談」の形で取材したらしい。常識のある知事、つまりその県の顔が、子供ならまだしも大人の女性を膝に坐らせ、シャンパンを手にするなどという愚行を写真週刊誌に撮らせるだろうか。頭のねじが外れた「馬鹿殿」といわれても仕方のない行為ではないか。そうなると、記者クラブの締め出しは「排他的な権益集団」への危惧どころか、「単にあなたが彼ら(記者クラブ)を気に食わないからたたき出したいだけだろう」と思われても仕方がない。

写真週刊誌の件について議員は「知事として使命感をもってやった行為か」と質したという。それに対して、田中知事は県のありのままの姿や「彼女」(女性タレント)について正しく理解してもらうために有意義な対談をした、と答えたらしい。支離滅裂なその答弁に至っては、何をやいわんや、で議員らが激怒した光景がその場にいなくとも眼に見えるようである。こうなると、一票を投じた長野県の皆さんは本当に田中さんが知事の資質を持ち合わせていると思って大切な一票を与えたのですか? と疑問を呈したくもなる。

一般質問での究極は、田中知事が知事室で酒を飲んでいたという行為を議員が「いかなるものか」と質したのに対し、要約すれば「議員の皆さんも議会終了後に神聖な議会棟で酒を飲んでいたではないか」とする旨の切り返しをしたこと。その論拠からすれば、「あんたらも飲んでたんだろ? オレが知事室で飲んで何が悪い!?」ということになる。ここまで愚かだと、長野県民だけの怒りではおさまらなくなる。

本来知事になるべき器ではない者が、別の面、例えば人気小説家であるなど、ただ単に人気があるということだけで、弾みで知事や国会議員になることがある。あの、大阪の○○もそうだった。そうした人格的に歪みのある人物を県政や国政に送り出してしまったということは、もとをただせば有権者の責任なのである。従来の政治家とは毛色の違う田中さんが長野県知事になることで、良い意味で全国の都道府県政に刺激を与えてくれるのではないかと期待していたが、28日の答弁で「本性見えたり」といわざるを得ないのは、何とも悔しく残念なことだ。

あえて写真週刊誌にも言及するなら、「あなた方はもう少し人間としての倫理感を大切にしなさいよ」と関係者らにいいたい。10年ほど前、こんなことがあった。日本で最も大きな報道機関に所属していたSさんが大館通信部に赴任してきた。何度か酒を酌み交わしたことがあるが、酔いにまわると社交ダンスをする気さくな人だった。ある日、その人は突然、蒸発でもしたかのように姿を消した。写真週刊誌が原因だった。その写真週刊誌を書店で手にしてみると、眼の辺りに"墨"を入れた1人の女性が泣き泣き何かを告白しているようなショットが巻頭を大きく飾っていた。妻子あるその記者は、女性に3度堕胎をさせたのだという。もちろんその記者に弁解の余地はない。しかし、読み進むと、その女性の"告発"で記事の大半が成り立っており、当の記者のコメントはどこにもなかった。当事者から取材をせぬまま名誉を力づくで剥奪し、家族やその人間の一生までも崩壊させる報道。それはペンの暴力を通り越して犯罪の域に達している。しかし、それを名誉毀損と告訴しない限り、そうした暴挙を裁く法律は日本にはない。彼らの行為は、「正義」という名の偽面をかぶるパパラッチと何ら変わらないのである。

とはいえ、写真週刊誌にかかわる人々も「この報道はとても正義とは思えない」とみずからの倫理感に抗いつつ生きる"糧"のためにしている行為なのかも知れない。「面白い」という尺度だけで読者は写真週刊誌を買う。読者の貪欲な興味を満足させるために、もっとももっと「面白く」しなければならない。結果的に倫理が抹殺される。何とも、むなしいことではないか。