デスクの独り言

第87回・2008年10月15日

力士の父 

 きょうは勝てたが、あすはどうなるか分からないのが大相撲の世界。まさに壮絶な勝負の世界だ。負け越せば転落が待っている。そうした非情な世界に身を置くある力士にとって、これまでの人生で最も悲しく、苦しいであろう話を聞いた。周囲の人たちには周知の事実だが、力士名を特定できぬよう可能な限り配慮しつつ、コラムで取り上げてみたい。

 父にとって、彼は自慢の息子だった。「1度でいい。小結まで上がってほしい。そうすれば、引退後、息子は元幕内力士ではなく、元小結と呼ばれる。それは天と地ほどの違いだ」。父は親しい人らに、たびたびそう話していた。精進の賜物であろう。願いはかない、父は天にも昇る思いだった。

 両親の暮らし向きは、余裕のあるものではなかった。息子はいつも両親のことを気遣っていたようだ。ある日、息子は父に300万円を渡した。「新しい家を建ててほしい。これは、土地を買うおカネだ」。地方の土地は、極端に高いというほどではない。そこそこの宅地なら、息子が渡してくれた金額で購入できた。

 だが、父にはある"病(やまい)"があった。無類のパチンコ狂。息子が体を張って貯めた300万円を、父は1銭残らず使い果たしてしまった。それでも足りず、サラ金に手を出し、取りたての電話が職場にまで来る始末。妻は愛想をつかして家を飛び出し、事実を知った周囲の人たちは呆れ果てた。親方の耳にも入った。「お前はいずれ、年寄株を持たなくてはならぬ身だ。カネをどぶに捨てるような真似はするな。これから先、お前のカネの一切を私が管理する」。親方は力士にそう告げた。それほどの期待を寄せている弟子だった。

 息子にとって、父の行いはいかに重い心労を与え続けたことだろう。ようやく小結になってこれからという時、彼の調子は上がるどころか低迷し続け、わずか1場所で三役を転げ落ちた。屈辱以外の何ものでもなかったはずだ。過去最悪の3場所連続負け越し。そして、4場所目。これで負ければ、十両に転落する。もう後がなかった。

 初日から3日連続の黒星。どうしても勝てない。が、転機は4日目に到来した。持ち前の突き・押しが戻ってきた。歯を食いしばって乗り切り、4場所ぶりに勝ち越しを果たした。

 場所中にある事実を伝えられていたら、衝撃の大きさが闘う気力を完膚なきまでに奪っていたに違いない。3連続黒星を喫したその日、父が人知れず亡くなっているのが見つかった。家の小屋の2階。自分の不甲斐なさを息子に申し訳なく思い、独り寂しく逝ったのか。今となっては、誰にも知るすべはない。

 「きょうで3日続けて負けている。親父の死を伝えたら、もう勝てなくなるんじゃないか?」。伝えるべきか否か、周囲は悩んだ。父と懇意にしていた近くに住む元新聞記者が、機転の利いた言を発した。「今伝えれば、彼は間違いなく十両に転落する。といって、伝えなければ恨まれる。なら、こうしてはどうか……」。親方の耳にだけ入れよう。伝えるかどうかは親方の胸先三寸。伝えて千秋楽まで全敗したとしても、それは親方の判断。下駄を親方に預けてしまう、のはずるいといえばずるいのかも知れないが、父の兄をはじめ血縁は崖っぷちで闘う力士に死を告げる勇気を持ち合わせていなかった。

 4日目以降破竹の勢いをみせたことからして、場所中に親方が伝えなかったのは疑う余地もない。伝えて立ち上がれなくなるよりは伝えぬ方が優しさというもの、と親方は考えたのではあるまいか。

 多くの人たちに見送られることなく、父は密葬にされた。それさえ知らず、その日も力士は死に物狂いで闘っていた。力士にとって栄光と挫折は常に隣り合わせだが、それとは別の次元で誰にも知り得ぬ苦しみがある。別れも告げずに逝った父を、彼は今、どう思っているのか。これまでの人生の中で最も大きな悲しみを乗り越え、来場所も相撲ファンを沸かせてくれるのか。あるいは、立ち直れずに落ちていくのか。すべては彼の気力にかかっている。地元の人たちとともに、見守っていきたい。