デスクの独り言

第79回・2007年4月11日

被害者を護る心

 秋田報道懇話会は11日、犯罪被害者の実名を公表するよう県と県警本部に申し入れた。これは、17年2月に成立した犯罪被害者基本法や犯罪被害者等支援基本計画に絡み、各方面で賛否両論渦巻いている問題だ。おおかたの報道機関は、今回同懇話会が申し入れたように、実名公表を「是」としている。というより、それをすべきだという論調である。実名、匿名の判断を警察に委ねることはできないとし、「国民の知る権利」を強調している。その上で、メディアスクラム(集団的加熱取材)を報道の立場で"自己批判"し、遺族や被害者を傷つけないための配慮が必要、というほぼ同じ色合いの論理展開である。

 犯罪被害者の実名はこれまで、殺人事件に代表される重大犯罪や社会への影響度が大きい事件などではおおむね明らかにされてきた。報道されることによって犯罪被害者はその存在が白日のもとにさらされることになり、ワイドショーなどのカメラがずかずかと人の心に土足で踏み込むメディアスクラムが、今も平気で行われている。そこにはもはや、個人のプライバシーなど存在せぬかのようである。

 それを今度は、公表によって被害者の人格まで踏みにじりかねない事件についてまでも、実名を公表しろというのだ。例えば、性的暴行、ストーカー、痴漢、セクハラなどの被害者はこれまで、警察を含む一部の関係者はその事実を知ったとしても、社会に公けになることはなかった。被害者にとっては思い出すのもおぞましい悪夢で、一刻も早く封印してしまいたいと願う。「報道」という"巨象"は、それすらも「隠すな。みんなが知りたがっているのだ」と言わんばかりに、関係機関に対して被害者の実名公表を迫っているのである。

 仮に、婦女暴行被害者に的を絞ってみたとしよう。加害者の名前とともに、被害者の氏名が活字となり、アナウンサー、キャスターによって読み上げられる。この光景を思い浮かべた時、皆さんはどう思うだろうか。無論、個々によって受けとめ方は違うだろう。ある人間は、被害者の名が出されることに好奇心がかきたてられるかも知れないし、ある人間は同情するだろう、またある人間は報道にそこまでする権利があるのか、とやるせない怒りが込み上げるかも知れない。

 では、婦女暴行を受けた上に、名前まで社会に公けにされた当の本人の心境を考えてみよう。1,000人いれば1,000人すべて、いたたまれぬほどの恥辱、屈辱感を味わわされ、中には自殺したいと思い、極度のうつ状態に追い込まれてみずからの命を絶つ被害者も出ることだろう。報道された瞬間、被害者は社会からこれまでとはまったく違う視線を浴びることは必至で、場合によっては職場はおろか外へも出られず、完全に社会的生命が奪われることさえあり得る。

 それが「報道の自由」なのか、それが「国民の知る権利」なのか。答えは「否」だ。誰にも被害者をこれ以上傷つける権利などないのである。仮に氏名公表で被害者が自殺に追い込まれたとしても、巨大な勢力である「報道」は言うだろう。「私らの責任ではない。私らは社会が認知したことをやったにすぎない」と。実名公表を後悔するはずもないし、死に追い込まれた人へのお悔やみの念すら期待すべくもない。「みんなでやれば恐くない」で、仮に被害者が実名公表によってみずからの命を絶ったとしても、責任の所在はどこにもない。そこが、被害者の実名公表の最も恐いところである。被害者の人権は何よりも優先すべきだ。とどのつまり、実名公表という「パンドラの箱」を開けてはならないのである。

 こうした論法に、「そんなことを言ってるから、いつまでたっても警察をチェックできないし、警察が平気で調書を改ざんしたりするのだ。被害者の実名公表はそうさせないための、必要不可欠な手段だということが分からないのか!」と激怒する記者もいよう。それとこれとは別問題だ。警察をチェックするための手段としての実名公表など、「報道」の詭弁にすぎない。被害者の実名を白日のもとにさらさなくとも、警察の不正をチェックし、事件を検証するのは不可能ではないことを記者という立場に身を置く者なら、知っているはずだ。そうして記者たちは、切磋琢磨してきたのではないのか。

 あえて実名公表の余地があるとすれば、当の被害者が「出してもいい」と明確に意思表示した場合のみであろう。本人の了解も得ずに公表するなど、人権侵害どころか報道機関が徒党を組んだ暴挙以外の何ものでもない。警察が「巨象」の圧力に屈して公表する時が来るとすれば、それこそが由々しき時代の到来で、被害者本人のみならず家族、親戚など不幸な人々を全国に数多くのつくり出していくことになる。

 報道は、何でも抉り出せばいいというものではない。何よりも大切にすべきは人の心だ。被害者はそれだけで"満身創痍"なのに、さらにぼれ切れのようにしてしまう権利など、一記者や報道機関になどあるはずはない。詭弁の鎧を着込んで権利ばかりを主張するのではなく、報道に身を置く者は今一度、良識とは何かを、胸に手をあてて考えてみるべきではないのか。