デスクの独り言

第62回・2005年1月3日

正月随想2005

 早いもので、2005年が明けたと思ったら、3が日もきょうでお終いである。どの年もそうなのであろうが、昨年も例外なく「激動」の年だった。対外的にはイラクへの自衛隊派遣、北朝鮮の拉致疑惑問題など。中でもイラクの問題は、国際社会に対する日本としての果たすべき役割や貢献、イラクの民主国家樹立のため、などと小泉総理がいかに自衛隊派遣の正当性を強調しても、米国、というよりブッシュ大統領の片棒を担がされている印象を拭いきれない。

 国を二分した米大統領選挙は、「強いアメリカ」を望む国民と「アメリカを根本から変えよう」という国民の"戦い"だったように思えるが、ブッシュ氏が再選を果たしたことで、独断的かつ強行的な米国の"本性"は当分変わらないであろうし、これに加えブッシュ氏の最腹心であるライス首席補佐官がパウエル氏に代わって国務長官の任(1月末予定)に就くことで、米国はより一層強行な国としての色合いを濃くしていくことは眼に見えている。真に世界平和を願うなら、米国民は何としてもブッシュ再選を阻止しなくてはならなかった。

 「ブッシュは石油大国イラクがほしいだけ。イラク攻撃は侵略でしかない」ということを知りながら、国民は再選を阻止できなかった。そしておびただしい数の米兵の戦死。それらの家族のことを思うと、「むだ死に」などとはいいたくない。息子や夫を失った遺族が今後、国に裏切られないことを願うばかりである。そしてまた、何の罪もないイラク国民の命もとめどなく失われているのは、いうまでもない。それを「正義」などと呼べようはずはない。

 そして北朝鮮問題。小泉総理をはじめ政府にとってこの問題は、まさに眼の上の短こぶと表現しても過言ではなかろう。なぜ、あれほどまでに拉致被害者家族やそれを支援する団体に政府が突き上げられるのか。それは、長い間、国として事態を無視してきたことの"ツケ"を支払わされていることの表れではないのか。もっと早くから拉致被害者の家族の痛みを理解し、誠意ある行動を取っていれば、これら家族の眼にも「国はがんばってくれている」と映ったであろう。

 しかし、ようやく腰を上げたはいいが、さながら子どもの使いでもあるかのごとく、さほどの"働き"をしていないことに家族らは苛立っているのである。DNA鑑定の結果、まったく別人の骨を提示してきた北朝鮮に対して家族らが激怒するのは当然のことで、「即刻経済制裁を」と望む声も多い。その憤懣は十分に理解できるが、ここで1つ、冷静に考えてみてほしい。日本が経済制裁を発動したところで、あの国の指導者にはそれほどのダメージはない。引き続き「王」や「神」として、彼は何不自由ない暮らしを続けるであろう。経済制裁によって地獄を味わわされるのは、国民そのものなのである。指導者と、弱い立場にある国民を混同視してはならない。

 民主的カラーを少しずつ打ち出してきているとはいえ、北朝鮮での貧富の差は以前にも増しており、食糧や医薬品などが慢性的に枯渇しているあの国への経済支援を絶ったら、少なからず死者も出るであろう。日本の「経済制裁」はまさに、「奴らが誠意を示さないなら、こちらもすべてを断ち切ってしまえ」という発想、つまり、「やられたからやり返せ」、戦争にも準ずる考え方である。1人でも多くの拉致被害者を帰国させるために、今年も国民が日本政府の"尻"をたたかなくてはならないのは当然だが、怒りに任せての経済制裁だけは避けるべきだ。

 まして、北朝鮮側は「われわれを信じないなら、拉致問題については今後一切協力しない」と態度を硬化、つまり逆ギレ状態にあり、そうした中で経済制裁を強行しようものならこじれにこじれ、挙句の果てに日本にテポドンを発射することも可能性として皆無ではない。北朝鮮は、そうした空恐ろしい国なのである。その点をよく見極めて行動しないと日本は大変なことになる。また、この機に乗じて米国が一層しゃしゃり出てくる可能性もあり、そうなると北朝鮮でイラクと同様のことが再現される危険性すらある。

 国内に眼を向けると、昨年は新潟県中越地震や台風など天変地異による被害が際立った年だった。被災者のために国民が善意を出しあった。殺伐とした時代の中で、そうした助け合いの精神は何よりも価値があり、被災者にとっては「日本も捨てたものではない」と、立ち直る励みになり得たのではなかろうか。また、昨年暮れに発生したインドネシア・スマトラ沖地震による津波被害は、日本人が500人以上、全体で15万人以上の犠牲者数にのぼるとみられ、日本を含む各国はこれから復興支援に本腰を入れることだろう。こういうときこそ、地球レベルで一体となって助け合わなくてはならない。

 一方、国内で発生した凶悪犯罪はますます異常の度合いを強めた。小学1年生女子誘拐、殺害事件は年も押し迫ってようやく容疑者逮捕に至ったが、この事件に代表されるように、平気で人を殺す、また、大勢が集まる場所に平気で放火をする、いわば「人間の皮を被った鬼畜」があまりにも多いように思えてならない。21世紀の現代は、よりストレスの溜まりやすい時代であるのはまぎれもない事実だ。心を病んで「冷酷な鬼」と化した者も多数出てくる。そして、その数が今後さらに増えるのは予想に難くない。警察の人員体制を強化しても、おのずとそこには限界がある。凶悪犯罪をはじめとする犯罪を少しでも減らすにはどうしたらいいのか。解決の糸口は、まったく見えてこない。

 最後に「社会現象」という観点から、韓国に触れてみたい。当コラムで、「冬のソナタ」を初めて紹介したのは一昨年6月14日付、第49回だった。「ふれあう韓国」と題し、そのドラマを日本語吹き替えではなく、一貫してハングル(韓国語)で試聴していることなどを挙げた。その時点でも日本国内では好視聴率だったと予想されるが、マスコミなどではほとんど取りざたされていなかったと記憶している。「ヨン様」ことペ・ヨンジュンや、ヒロインのチェ・ジウなどが一気に注目されて日本中が"大騒ぎ"になったのは、その年の後半以降ではなかったか。「冬ソナ」という呼び名が流行語大賞の一角に挙げられたのも昨年のことであり、実際、「冬ソナ」「ヨン様」が社会現象になったのは、まぎれもなく一昨年ではなく昨年だ。多少解釈に苦しむが、「韓流」などという流行り言葉も出てきた。

 「ヨン様」はなぜか、若い世代以上に「おば様」たちに人気があり、テレビのインタビューで、ある中年婦人が「私もあれに似た経験をした。それを思い出して冬ソナを観ていた」と平気な顔でいっていた。思わず吹き出してしまった。あのドラマを地でいくような体験など、そうそうできるものではない。万が一あったとしたら、とてつもなく苦しく、せつない世界で、まさに「体験したくない世界」だ。多くの女性が、「あるある、あんな経験」などと思いつつ、あのドラマを観たのであろうか。

 当コラムでは昨年4月4日付の第54回、「韓国ドラマ」のタイトルで、再度韓国を取り上げた。「美しき日々」「オールイン 運命の愛」、そして今は超ロングランの時代物「宮廷女官 チャングムの誓い」を相変わらずハングルで観ている。英語ならまだしもハングルについての素養がないため枝葉末節のやり取りは分からないながらも、大きな流れは明確に理解できる。「冬ソナ」のヒロイン「ユジン」をハングルで「ユジナ」、「チャングムの誓い」の「チャングム」を「チャングマ」と多くの機会に呼んでいたことの意味も、ようやく理解できた。「ユジナ」「チャングマ」など、呼び名の最後に「ア」を付けるのは、友人、恋人、家族などごく親しい間柄での変化形呼称なのである。また、韓国俳優の声質は、全般に重厚だ。日本語吹き替えにして観ると、声優の声がやけに画一的で安っぽく聞こえ、今ではハングルでないと試聴できなくなってしまった。

 「冬ソナ」など一連の韓国ドラマに惹かれて韓国ツアーに参加したり、ハングルの学校に通う人も、全国的に多いという。ただ、いつも痛感させられるのは日本人の流行好き。一つの流行が終息の兆しを見せ始めると、さながら引き潮のごとく引いて行くのが日本人の最たる特徴だ。「ヨン様」と騒いでいる「おば様」たちも、いずれ近い将来流行の矛先を変え、「ヨン様」どころか韓国にも眼を向けなくなるときが、必ず来る。

 「本物」というのは、流行が過ぎ去ってもそれを大切にする人であろう。例えば、韓国ブームが終わっても熱心に学校に通い続けて自分の韓国語をある程度のレベルまで高めていける人が本物と呼ぶにふさわしいし、韓国の人々と交流したいとこれから先も願い続け、自分なりのアクションを起こせる人。それが本物である。99.9%の人々は単なる「流行りの半てん」でしかないが、残るの0.1%の人々が韓国に対してみずからの意志を貫くことができたら、「冬ソナ」をはじめ一連の韓国ドラマは、放送価値があったといえるのではないか。たとえ0.01%にすぎないとしても、それは両国国民が理解しあう糧になり得る。