デスクの独り言

第60回・2004年10月2日

神話になる男(2)

 「神話になる男」という見出しのコラムをしたためたのは、約3年3カ月前の2001年6月のこと。マリナーズのイチロー外野手(30)について触れた。「伝説」を通り越えて「神話」にすらなり得る男、との思いを込め、あえて「神話」と表現した。2日、米リーグのシーズン最多安打記録を塗り替えた彼に対し、「神話になる男」はやはり過大な表現ではなかったと今さらながらに思う。84年前の1920年にジョージ・シスラーが樹立した257安打の大リーグ記録を彼は、想像を絶する苦労をおくびにも出さず、涼しげな顔で塗り替えた。野球にそれほど興味がない国民ですら、彼を偉大に思い、「日本の誇り」と感ずるのではないか。中央紙が号外を出したほどの大ニュースだ。日本のプロ野球界でそれを成し遂げたのではなく、野球を国技とする米国で成就させたからこそ偉大なのである。

 シーズン最多安打記録にあと2本と迫った10月1日、ある民放テレビが興味深いミニ特集を組んでいた。イチローの少年時代。生家(愛知県豊山町)の近くに「空港バッティングセンター」があり、父鈴木宣之さん(61)は毎日そこで2時間、9年もの間、彼に打撃の練習をさせたのだという。そのために父が費やした金額は300万円。何を思って父は息子に、来る日も来る日もそうさせたのだろう。劇画でいえばさしずめ、「巨人の星」の星一徹といったところか。幼少のころからイチローが黙々とそれに従ったのは、心底野球が好きだったからだろうか。いずれにせよ、一般人には想像もつかぬ世界がその父子には存在したことになる。誰にも真似のできぬ芸術的な彼の「固め打ち」の基本は、そこで培われたともいわれる。

 高校時代の野球部の監督は、こう話していた。「痩せていて線の細い選手だった」と。野菜を食べたがらないため、合宿などでは先輩たちがいやがるイチローの皿に野菜を山盛りにし、彼はベソをかきながらそれを喉に押し込んでいたという。これもまた、今の華麗なイチローからは想像もつかぬ姿だ。そうしたさまざまなことから"人間イチロー"を考察するに、天才であるという以上に、幾多の苦難を乗り越えながら一歩、一歩、今の自分を築きあげ、その集大成として前人未到の大記録を樹立した、と形容した方が妥当ではないか。プロ野球時代もずば抜けた結果を残してきたイチローだが、野球の本場で伝説のスーパースターたちを飛び越えてトップに立ったイチローは正真正銘「神話になる男」なのであろう。

 イチローやヤンキースの松井秀喜をはじめ日本人選手が優れた結果を出しているのに対し、長嶋茂雄氏が数カ月前に話した言葉が思い出される。「すばらしい結果を出せるのは、それだけ日本人選手のレベルが上がってきているからだ」と。だが、その見方はまったく違う、といいたい。日本人選手のレベルが全体に上がっているのではなく、日本人選手の中でもイチローや松井に代表される超一流の選手であるがゆえに、本場でこれだけの結果を出せるのだ。使い物にならなくて帰国し、結局日本野球しか居場所のないある選手のように、並みのプロ野球選手ではとうてい太刀打ちできないのがMLBだ。そうした意味では、全盛のころの王、長嶋の両選手をはじめかつての超一流選手がMLBを舞台に戦っていたなら、今のイチローにも匹敵する輝かしい戦績を残し得たのではないか。

 プロ野球ファンに叱られるかも知れないが、たまにプロ野球に目を投ずると、投手なのになぜそんなに球が遅い、打者なのになぜそんなに打てない、野手なのにそんな球も取れないのか、と落胆させられることがたびたびだ。最も気になるのが、プロ野球選手はメジャーリーガーに比べて身長差は仕方がないとして概して痩せている点。大リーグの選手も初めからビルドアップした体なのではなく、ウエイトトレーニングを含むさまざまな鍛錬で爆発的なパワーを生み出す体を作り上げている。日本のプロ野球選手にはそれが感じられないし、高校野球の大舞台甲子園を観ても、「監督やコーチはなぜもっと選手の体を作ってやらないのだろう」と思わせるほど全般に体が細い。プロになってもその延長線上にあるため、貧弱な体躯の選手が多いのだ。

 確かにイチローも白人、黒人選手に比べて格段に尻が薄いし、胸板、腕も彼らに比べて細い。だがイチローには、パワー不足を補うために血のにじむような努力の中でつかみ取ったであろう打撃の技術があり、脚があり、遠投で走者を仕留める投力と野性的な勘、かつ大リーガーの誰も持ち得ない抜群の野球センスがある。それらすべての総合力が84年ぶりの大記録樹立に直結していることは、いうまでもなかろう。

 野球の最大の花形は本塁打であろうし、そうした意味では今シーズン初めて30本台に乗せた松井も高く評価できる。これに対してイチローは本塁打こそ"量産"できないものの、狙った位置に打球を確実に落とす固め打ちは、まさに芸術といえる。イチロー、松井双方の個性、持ち味は異なるが、日本の底力をかの大国アメリカで知らしめる最大の"武器"が今や日本人メジャーリーガーともいっても過言ではないだけに、「日本人ここにあり」をさらにさらに見せてほしい。

 「少年たちには、みずからの可能性を潰さないでほしい」。新記録を樹立し、記者会見でイチローが放った言葉。誰にでも可能性がある、と伝えるイチローの言葉は、何とも重みがある。息子イチローに可能性を見い出し、それを最初に引き出した父宣之さんもまた偉大だったといえよう。

デスクの独り言第8回