デスクの独り言
                           
第6回・13年6月16日

巨大な鯛、妙な優越感

漁師歴10年以上の弟が16日昼、巨大な鯛を釣ってきた。漁師歴といっても本職ではない。秋田県北部の社員10人ほどの小さな新聞社の記者兼編集長らしい。訪ねたことがないので仔細はわからないが、記者歴19年の私より2年ほど長い。その弟が海釣りを趣味にして10年以上になる。川釣りも渓流釣りもしない。海だけ。ここ大館は海にほど遠い盆地。周辺が山々に囲まれているから海に憧れる。恐らく弟もそうなのだろう。たびたび夜中に釣り仲間と日本海に出かけては、獲物を持ち帰る。まるっきり釣れないので照れくさくて魚屋で買ってくる。そうした光景は漫画やドラマで眼にしたことがある。用意周到で出かけるようだし、高級な釣具を持っているようなので魚屋で買ってくるなどということはこれまで1度もなかっただろう。第一、海釣り人としてはそのような行為はプライドが許さないはずなのだ。

スーパーの鮮魚売り場や魚市場でしかお目にかかったことのない私の眼には、目の当たりにした鯛は異様な大きさに映った。体長63cm、重量は6kg近い。腕に覚えのある釣りバカは「そんなの小物だよ、小物」と笑うかもしれない。しかし、「これほどでかいのにはお目にかかったことがない」と小躍りするくらいだから、弟にとっては人生に1度あるかないかの大物なのだろう。口をぱっくりと開けながらじろりとこちらを睨みつける鯛。その恨めしげな眼は、釣られてやったんだから供養のつもりでちゃんと料理しろよ、とでもいいたげだった。ふと、金勘定が脳裏を掠めた。弟は釣り人の腕を誇示するためにこの大物を持ち帰ったのだろうが、途中で料亭に寄ってくれば1万円以上の臨時収入になったろうに。安給料だそうなので、帰る途中、それは頭を掠めたに違いない。にもかかわらず、わき目も振らずに持ち帰った。

いつだったか、夜明け前に母子の幽霊が岸壁で釣り糸を垂れる弟とその友人を、波間から手招いたという。事故や自殺。海には、うかばれぬ仏がたくさんいる。丑三つ時なら手招く霊がいても不思議ではない。日本海は太平洋よりも波が荒いから、岩場に坐っていても天候が豹変すれば高波にさらわれかねない。まして弟は、未明から早朝にかけて釣り糸を垂れるのを常としているので、危険の度合いたるや、はかり知れない。それが10年以上も続いている。だから、1度ぐらい大物とご対面してもバチはあたらない、ということになろう。

それにしても不思議である。学生時代、弟が先にギターで作詞作曲を始め、私が後塵を拝した。卒業して弟が先に新聞記者になり、またもや私が後塵を拝した。弟に真似をしていると思われているようで癪だったが、真似をしたつもりはなかった。「抗えぬ力で引っ張られる」とでも形容したくなるほど、自然とそうなった。私の方が早いものといったら、20年来続けているウエイトトレーニングぐらいのものである。どうしたわけか、数年前から弟はジムに通い始めた。最近そのジムがつぶれたのを機に弟もトレーニングをやめるものと思っていたが、いろいろとマシンを買い込み、自宅にトレーニングルームを作った。「真似をしているわけではないぞ」と弟はいいたいに違いない。しかし私は、先にやったのはおれだ、という妙な優越感に浸っている。

最近、海釣りに憧れる。どんな棹を買って、何号の糸をつければいいのかもわからない。にもかかわらず、無性に「海で釣りを」という衝動に駆られるときがある。思い切ってやってみれば、弟はほくそ笑みつつ妙な優越感に浸るに違いない。唐突に見せつけられた巨大な鯛。紅光沢のよろいに身をかためた全身を眼で舐めまわすうちに、再び海釣り願望が鎌首をもたげる自分に気づき、苦笑した。好むと好まざるとにかかわらず、2つ違いの兄と弟は妙な影響力を与えあって生きているのだろうか。どちらかが先にやれば、一方が妙な優越感に浸れるように。