デスクの独り言

第57回・2004年6月6日

ニホンとニッポン

 最近、「なぜだろうか」と疑問に思うことがある。メディアの固有名詞を出せばやや問題があるため伏せるが、アナウンサーやキャスターを中心に公共放送が不思議と「ニホン」という表現を使いたがらず、意識的に「ニッポン」を頻出している。あまりにも著しいため、「彼らは『ニホン』を死語化させようとしているのではないか」と勘ぐりたくもなるほどだ。

 日本の国語辞典の中で最も権威があるであろう広辞苑をひも解き、「にほん」と「にっぽん」の項目に眼を通してみた。どちらの項目も存在し、いずれにも「(略)奈良時代以降、ニホン・ニッポンと音読するようになった。現在も、よみ方については法的な根拠はないが、本事典においては、特にニッポンとよみならわしている場合以外はニホンとよませることにした」との記述がなされている。つまり、広辞苑は「ニホン」という表現の方を基本的に優先するとの見解を示していることになる。また、「ニッポン」の項目にはわずか14行しか記載がないのに対し、「ニホン」の項目には約2ページ分にわたって、さまざまな関連説明がなされている。これはまぎれもなく、「ニホン」の方が、日本人の歴史や風土、言語文化、国語学にふさわしい、と編集にあたった学者らが判断したからだろう。

 当然、新聞などに代表される活字メディアは、それ自体音声を発しないため、読者が「ニホン」でも「ニッポン」でも自由に読むことができる。しかし、テレビ、ラジオに代表される音声メディアはそうはいかない。彼らが「ニッポン」という表現に比重を置きすぎれば、視聴者の耳には「ニッポン」が"主たる表現"として届く。例えば、流行語1つ取っても、繰り返しテレビからその言葉が発せられることによって、「流行語」として全国に広がっていく。なら、ニュースなどでアナウンサーで「ニホン」という表現をほとんど使わず、「ニッポン」という表現に固執したとしよう。というより、数カ月前からそうなっているように思えるのだが、民放はともかく公共放送のように圧倒的な影響力を有する音声メディアは国民に、「ニッポンという表現を使わなくなった」と思わせる以前に、ごく自然に「日本はニッポンになった」と頭に刷り込ませるだけの力を持つ。つまり、公共放送のアナウンサー、キャスターが「ニッポン」に比重を置きすぎれば、国民の多くが「ニホン」を使用しなくなり、また、生まれたばかりの子どもが物心ついて言葉を話せるころには「日本はニッポン」が当然となり、それほど遠くない将来、「ニホン」は死語化する可能性をはらんでいる。極論かも知れないが。

 ただ、「ニッポン」にこだわるのはアナウンサーやキャスターに限定的な印象を与え、記者や特派員などはそうでもないような印象を受ける。また、学識経験者やタレントなど、いわゆる出演者からは「ニホン」が発せられる。最近、非常に面白い例があった。小説家の五木寛之氏が、1人で1時間ほど話し続ける、いわばテレビの中で講話をする番組を教育放送で見かけた。五木氏が「日本」をどう表現するかに興味があったため、最後まで試聴した。さすがに作家らしく、五木氏は後に続く単語との組み合わせによって「ニホン」と「ニッポン」を巧みに使い分けていた。日本語を大事にしており、このような人ばかりだと「ニホン」と「ニッボン」のバランスが保たれるのだが、と感じた。

 「日本」との組み合わせが成り立つ言葉をいくつか挙げてみよう。日本語、日本人、日本記録、日本政府、日本大会、日本国憲法、日本時間、日本代表、日本経済、日本大使館、日本各地、日本列島、日本アルプス、日本史、日本武道館、日本大学、日本新聞協会など、この中には明らかに「ニホン」という表現がふさわしいものも少なくないが、アナウンサー、キャスターはほぼ例外なくいずれも「ニッポン」にこだわり、さながら仇(かたき)でもあるかのごとく「ニホン」を使いたがらない。さすがに「日本海」ぐらいになると、「ニッポンカイ」などとは読めまいが、日本大学、日本新聞協会などの団体はきちんとローマ字で「Nihon」と記し「ニホン」を強調している。にもかかわらず、彼らはなぜ、それを無視してまで「ニッポン」に固執せねばならぬのか、理解に苦しむ。

 バレーボールのオリンピック予選など、応援に駆けつけた観客が「ニッポン、ニッポン」と声を揃えて日本チームを励ましている。応援風景の定番だ。これが「ニホン、ニホン」だと音声のリズム上バランスが悪いため、「ニッポン」がマッチしているのはいうまでもない。つまり、「ニホン」がふさわしい場合、「ニッポン」がふさわしい場合があり、日本人は長い歴史の中でそれを"自分のもの"としてごく自然に使い分けてきたのだ。ではなぜアナウンサーらは「ニホン」を"排除"して「ニッポン」にこだわるようになったのか。その点については、視聴者に何一つ説明がなされていないであろうし、視聴者を納得させ得るだけの理論など、彼らがたずさえているとは思えない。

 ほかの言葉、単語ならいざ知らず、事は奈良時代以降脈々と愛され、使われてきた日本の呼び名に関してである。なおかつ、民放ならともかく絶大な影響力を誇示する公共放送のアナウンサーらがむしろ率先するかのごとく「ニホン」を使わないのは、日本語や「日本」に対する冒涜、と思いたくもなる。「ニホンとニッポンのどちらを使ってもいい」が、本来の自然な姿なのであって、「私らは便宜上ニッポンに統一しますが、視聴者の皆さんはどうぞご自由に」が彼らの基本的スタンスだとしたら、その影響力をみずからまったく理解していないことになる。無論、「私らはただ原稿を読み上げているだけですよ」と、かわされてしまえばそれまでだが、ニュースを読み上げる時以外を含む多くの場面での傾向から、「不自然ではないか」と指摘しているのである。

 「アナウンサーがそれを使うのだから、正しいのでしょう。考えすぎちゃいけませんよ」などと、寛大に受け入れる国民の方があるいは多く、当コラムのような見解はむしろ少数派なのかも知れないが、それならそれで「ニッポン」を半ば統一的に使用するアナウンサーらの見識を疑うとともに、責任の重大さを指摘したい。そうした追及姿勢こそが、「数の論理」ではない是々非々、であろう。