第51回・2003年9月5日 恋愛論・純粋と不純 日本でも大きな反響を呼んだ韓国の超人気ドラマ「冬のソナタ」(NHK・BS2/毎週木曜夜10時)が、4日の第20回で完結した。この作品については、当コラムの第49回でも少し触れたが、最近の日本のドラマではなかなかみることのできない純度の高い恋愛をテーマにしていることや、ソウル市の企業との経済交流を通じて韓国という国に強い関心をいだいていることもあり、結局最後まで鑑賞することになった。これも先のコラムで触れたが、日本語の吹き替えではなくハングルを直接耳に馴染ませることによって、生の韓国ドラマを楽しもうと試みた。 この作品に最も大きな魅力を感じたのは、前述のようにきわめて純度の高い恋愛をテーマにしたという点。チェ・ジウ演ずるヒロインのチョン・ユジン(ハングルではユジンではなくユジナと表現)、ペ・ヨンジュン演ずる相手役のカン・ジュンサン(ハングルではチュンサンと聞こえた)、そしてパク・ヨンハ演ずるユジナのフィアンセのキム・サンヒョク。この3人が軸となって恋愛ドラマが展開されるわけだが、それぞれに深い恋愛感情があるといっても無論三角関係などではなく、不倫や浮気といった"汚物"が入り込む隙間などそこには存在しない。3人とも、真剣に人を愛している。かつ3人とも胸が張り裂けそうな苦悩に翻弄される。できすぎと思える場面が多いなど作品としての荒削り感は否めないものの、全編ハングルで鑑賞していてさえ、かなり細部まで理解できた。音楽効果や景観設定の巧みさもあって詩情豊かな点もまたこの作品の大きな魅力であり、秋田県では「冬のソナタ」の舞台を訪れるツアーまで企画された。 話は唐突に飛ぶが、今から10年以上も前のこと。北秋田郡のある町に1人の英国人女性が英語指導助手として赴任してきた。その女性にインタビューをする機会があった。女性はなぜか日本語がほとんど話せなかったため、英語でインタビューせざるを得なかった。インタビュー以外の話の中で、ロンドン出身の彼女はいった。「ロンドンでは、恋愛が自由なの。ご主人には恋人がいるし、奥さんにも恋人がいる。そういう夫婦がとても多いのよ」と。つまりは、不倫、浮気天国だということ。しかし、それはロンドンに限ったことではなく、日本でも都会はもちろん、地方でさえ日常茶飯事といってよい。「冬のソナタ」を鑑賞していて、紛れもなくこれは純粋な恋愛なのだと納得できた。家族や友人など周囲もともに苦悩するのだが、他人の家庭に土足で上がりこむある種の"愛"とは明らかに異なる。 「不倫も愛の一つの形なのだよ」といってはばからぬ人がいた。「馬鹿か、あなたは!」と喉元まで出かけ、無理に押し戻したのを憶えている。そもそも不倫、浮気の類いは、「純粋な愛情」の対極に位置する。獣は、そこに理性が存在しないため、何の抵抗もなく不特定の相手と交尾をする。結婚という概念すら存在のしようがない。だが、人間には厳然と理性が存在し、それゆえに霊長類の頂点に君臨できる。それが存在しなければ人間足り得ない。 「不倫」という行為は、人間としてとてもつなく恥ずべき行為、かつ誰にも認められず、蔑まれる行為であるからこそ「不倫」と呼ばれるのではないか。つまりは、獣にも劣るのである。それは決して愛などではなく、欲望の延長でしかない。不倫者は、相手の家庭に土足でずかずかと上がり込み、平和であるべきはずの家庭に不協和音を生じさせることによって家庭そのものを破壊していることにすら気づかない。「この人がほしい」。それは純粋な愛だと自分を納得させようとする。無論それは身勝手なエゴでしかないばかりか、卑劣な独占欲でしかない。同じ立場に立てばどうか。不倫女性が逆に妻の立場だとする。同じ仕打ちをされれば、いても立ってもいられないはずである。が、おのれのしている愚かさゆえに相手の立場で考えることなどできようはずもない。相手の家族の子供ならどうか。不倫がもとで両親がいつも喧嘩をしている。そんな状態が子供にとっていかに不安で心細いかを、相手の家庭の身になって考えることができないのが不倫者の特性であろう。それが女性の場合、世間は「泥棒猫」と形容する。 しかし、それは女性に一方的な罪があるとはいい切れない。諸悪の根源は「浮気」をする男である。浮気をした挙句、家庭を崩壊させ、最後には相手の女とも別れる羽目になり、結局馬鹿をみたのは自分だけ、という話を現実の世界でもよく耳にするし、周囲にもそのような者がいる。そうした愚かしい男たちにはこういいたい。「自業自得でしょう」と。「結婚相手だけを愛するなんて時代遅れだよ」と不倫、浮気礼賛の人々には嘲笑されそうだが、生涯、1人の相手、そして家族だけを愛してこそ、真の幸福が得られるのではなかろうか。というより、そう確信している。そうした意味でも、「冬のソナタ」は単なるドラマにとどまらず、「愛のあり方」について深く考えさせられるものがあった。ドラマや映画は確かに作り物には違いないのだが、日本のようにストーリーの中に不倫や浮気を安直に持ち込んではならない。三文ワイドショーや小説なども定番であるかのごとく、安易に不倫、浮気を扱う。思慮分別に乏しい人の中には、不倫、浮気は現代の恋愛のトレンディーなのだと思い込む者まで出てくる。そうした意味では、不倫、浮気の活字がやたらと躍るマスコミの責任も大きい。 不倫、浮気を"謳歌"している人は、必ず訪れるしっぺ返しを覚悟すべきである。最後に「こうなるはずではなかった」と地団太を踏んでも遅い。自分で自分の責任を取れず、世俗的な感覚の持ち主ほどそうした行為に走る傾向が強い。秋田北地方のある自治体では今年、立て続けに2人の男女職員がみずからの命を絶ち、首長が「職員の指導には今後さらに気を配る」旨の釈明をした。このテーマで論じているからには、その背景など語らずともよかろう。誰にも恥じることのない恋愛なら、胸を張って堂々と2人でどこへでも行ける。だが、後ろめたい男女はおのずと"密会"しか手段はなく、会う場所も必然的に限られる。挙句の果てに命を絶つなど、決して潔いことではないし、美化できるものでもない。「それ、みたことか。そんなことしてるから、そうなったんだ」と周囲の人々も口にせざるを得ない。葬儀でも「惜しい人を亡くしました」とはならず、「家族、親類の恥さらし」で片付けられてしまう。 逆もまた然りで、夫や子供のいる女性がほかの男に走る「不倫」も巷にはごろごろしているわけだが、いずれにせよそうした最悪の状況すらもあえて受け入れる覚悟があるなら、不倫、浮気をしてみたらいい。前述のようにいずれすべてを失うし、伴侶に知れずにたっぷりと通じた挙句、浮気相手とうまく別れたとしてもその人間のやり方が上手だということではなく、家族を裏切って「爛れた情事」に溺れ続けた自分は屑であることを自覚すべきだ。北秋田郡のある町では、役場職員が浮気相手に結婚を求められ、結局犯罪に手を染めて社会的声明を失った。 行政だけを例に挙げているようだが、民間企業ともなると不倫はさらに"当たり前の世界"である。くどいようだが、そこに真の愛など存在すべくもなく、あるのは独占欲とエゴ、つまみ食いの意地汚さだけで、1度そこに足を突っ込んだ人間は「不倫の権化」と化してしまう。現在進行形の者は即刻やめるべきなのだが、そうした人々のほとんどはすでに抜き差しならぬ状態に置かれているため、ゲームをやめるように容易に終止符を打つことなどできない。たとえそれが、このままいけば家族を失うとわかっていても、である。隣県の前知事も、不倫疑惑で身の置き所がなくなり、結局職を辞した。不倫など一時のまやかしにすぎず、その代償は図り知れぬほど大きい。そんな餓鬼地獄の中に没落してしまわぬよう、しっかりと自分を成長させなさい、といいたい。また、自分が年長者でおのれに恋愛感情をいだいた相手がまだ若いなら、道を踏み外さぬよう諭してやるぐらいの人格がほしいものである。その人格が貧弱もしくは欠落しているから、往々にして「いい年をして……」となる。 数日前、NHK教育の「ハングル講座」で「冬のソナタ」を引き合いに出しながら、愛情表現に言及していた。韓国人は、これこれこうなのだから、私のあなたへの愛は本物なのです、という具合に、相手に対して理論的に語り、相手も同じように論じてくれるのだという。日本では理屈っぽいと受けとめられがちな行為も、韓国ではむしろ当然のことらしい。確かにそうしたやり取りは、「冬のソナタ」でも随所にみられた。日本なら、「一杯、どう?」というノリで誘ってそのまま……となることも珍しくないが、韓国では雰囲気ではなく、論理が重要な意味を持つとのことだ。それは相手をより深く知ることにもなるし、どれだけ相手への自分の愛が深いかをきちんと伝える手段となる。 ビジネスでも、こちらが誤解すれば、韓国人は最大限の誠意とともに誤解を解こうとする。最近、秋田北地方の会社が韓国の世界的大企業に事実上乗っ取られたというショッキングな話が耳に届いたが、会社の乗っ取りは日本でも日常茶飯事だし、韓国人そのものを否定する材料にはならない。とまあ今回は、スタンダールとはほど遠い「恋愛論」をテーマにしてみたが、韓国は面白い、という気持ちがますます深まっている。今月25日からは、「冬のソナタ」のヒロインを務めたチェ・ジウや韓国のトップスター、イ・ビョンホンの出演による「美しき日々」(毎週木曜夜10時-11時/全24回)が始まる。恋愛に対する考え方も含め、韓国からは、しばらく目が離せそうにない。 |