デスクの独り言
                           
第33回・2002年4月5日

政界にみる報道姿勢

国会議員の秘書給与に関する問題が、一気にクローズアップされている。辻元清美前衆院議員に続いて今度は田中真紀子前外相の公設秘書給与の「ピンハネ疑惑」、さらには辻元氏の秘書給与不正受給疑惑を背景とする土井たか子社民党党首の責任問題。遅まきながら、秘書制度の抜本的見直しが必要とする声も出てきた。

こうした一連の事象に、ある疑問が湧いてくる。辻元氏の場合もそうだったが、田中真紀子氏の場合もごく一部の週刊誌が報じた記事が発端となって大問題に発展している。同じ土俵で競うメディアでありながら、○○議員の○○疑惑について○日に発売する雑誌に掲載されることがわかった、などという報道の仕方をなぜする必要があるのか。これは報道責任の所在をすべて雑誌側に被せてしまい、自分たちは安全パイで報道しようという意図の表われといわざるを得ない。その雑誌に掲載されるかどうかに関係なく、各メディアがそれぞれの責任において洗い直しをし、ガセネタなら報道しなければいいだろうし、真実なら徹底追及すればいいのである。

にもかかわらず、雑誌報道にそのまま乗っかかり、「疑惑」の色づけをしてしまう。これではシロかクロかも不明確な時点で、国民は「クロではないか」と思い込みかねない。メディアは、それがガセであろうが何であろうが、さして重要と考えない。たとえそれが一雑誌であれ、「疑惑あり」と誰かが口火を切るやいなや、裏も取らずに当の議員にアリのごとく群がる構図。むしろこれは日本のマスコミの顕著な特徴といえよう。つまり、各社が群がっているネタを一社だけが無視できないという体質が構造的なものとしてあり、勢いそれが人権を無視した報道にも発展してしまう。これは国会議員とて例外ではなく、報道が徒党を組めば人権は半ば無視される。

昨年12月6日、集団的過熱取材に対して日本新聞協会編集委員会が新見解を出した。「集団的過熱取材(メディアスクラム)」について、取材者が守るべきガイドラインなどをまとめたものである。「見解」では、すべての取材者が最低限守るべきルールとして、嫌がる当事者や関係者を集団で強引に包囲した状態で取材しない、などとしている。現状をみると、この「見解」を遵守しているとは到底思えない。日本民間放送連盟も「新聞協会が積極的な取り組み策を公表したことを歓迎する」などとコメントを出していたが、「私たちの取材でこうした事実が明るみに出ましたが、どう考えますか」ではなく「疑惑について雑誌に掲載されていますがどう思いますか」とマイクを突きつける、ある種"他力本願的"な取材攻勢。

確かに、田中前外相も一雑誌による疑惑報道に対し「名誉が傷つけられた」として、出版社に抗議していないことからすれば、きな臭さは拭えない。疑惑に対するコメントの歯切れの悪さも辻元前議員の場合と酷似する印象があり、数日中にも新事実が明るみに出て辞職の有無を問われるであろうが、田中氏がきのう吐露した「やぶから棒が出てきた」という言動からも察せられるように、掲載雑誌の記者は当の田中氏には何ら取材していなかったのが窺い知れる。公設秘書など一部から得た情報に基づいて記事にしたとみられるが、肝心の本人に第一報を手がける時点で取材しなかったのはいかなるわけか。記事になる前に握りつぶされるとでも懸念したのであろうか。いずれ大問題になる報道物件なのだから、ほころびを生じぬ記事として報道すべきではないか。でないと、匿名者から得た聞きかじり記事と断じられても仕方がない。

これは週刊誌などにありがちな傾向だが、本人に直接取材しないでそれほど信憑性のない者からのコメントだけをもとに記事にされた場合、「あなたの記事、雑誌に載ってるよ」と、特定の一般人が周囲に指摘され、社会生命を奪われることも、いずれ他人事ではなくなる日が来る。今から10年ほど前になろうか。秋田北地方に駐在していた巨大メディアの記者がある日、写真週刊誌の巻頭にスキャンダルを暴かれ、一瞬にして社会的生命を奪われた。その記者にも大きな落ち度はあったのだが、記事は外堀取材一辺倒の印象が強かった。たった一つの記事が家族を崩壊させ、いともたやすく個人を社会から葬る。すっぱ抜いた記者は「これが正義だ」とばかりに有頂天になり、書かれた人間がこれからどうなるかなどということは概して考えない。雑誌記事とはいえ、社会に与える影響は絶大である。記者は、功名心にとらわれることなく、きちんと真実を追究する眼を持つ者でありたい。

さて、辻元清美前議員の秘書給与不正受給疑惑に関する土井社民党党首の責任問題は、きょう午後開かれた同党の全国幹事長・選対責任者合同会議で「責任追及なし」と決まった。執行部の対応の甘さなど内部批判はあるが、土井党首の責任を追及していけば党そのものが腰砕けになりかねず、有権者が同党にそっぽを向いてしまいかねない。従って、今回は土井党首と一枚岩の党首秘書が問題の政策秘書を辻元清美氏に紹介したという重要事実が背景にあるにもかかわらず、党上層部で臭いものに蓋をしてしまった形だ。

土井党首は、きのうの報道攻勢に対し、「どうして一議員の秘書の給与まで(党首である)私が関知していなければないんですか」と語気荒く突っぱねた。その理屈にうなずけぬでもないが、反面、おや、と思う。まったく同じように与党議員がまな板にあげられていれぱ、「党首たる者、何も知らないということでいいんですか!」と徹底糾弾するのが従来の土井氏の政治姿勢だったはずである。しかるに、いざ自分に火の粉がふりかかると、「何でそんなことまで私が知っていなくてはならない」という発言は、国民の耳にはおのれ可愛さの言動にしか聞こえない。せめて「本当に私が責任を追及されるべき問題かどうか、党内できちんと議論します」ぐらいの謙虚さがほしい。同党の福島瑞穂幹事長もこの問題について「土井党首の責任論が出ていること自体、まったく不思議」などと憤慨しているが、本当に責任がないと思っているとしたら、今回の秘書給与問題にみられるような腐食の構造は今後も改善されない懸念すらある。そうした観点からすれば、同党の幹部には社会通念上の良識との間に、認識的ズレが感じられる。責任を取って辞めろとはいわないが、「何で私に責任があるのよ」的な発言は、党首たる者、すべきではない。