デスクの独り言
                           
第32回・14年3月29日

議員辞職

政界はまさに魑魅魍魎(ちみもうりょう)、妖怪の住む世界である。鈴木宗男、加藤紘一の両氏、そして辻元清美氏。いずれも厚顔無恥な面々といわざるを得ないが、このように次々と薄汚れた部分を見せつけられると、曝露された議員は氷山の一角にすぎず、多くの議員が裏でのうのうと不正に手を染め私腹を肥やしているのではないか、という疑心暗鬼の思いにとらわれる。今や「真の政治家」など幻想にすぎない。大方がみずからを正当化するのに長けた政治屋にすぎぬ、という印象を今さらながらに深めてしまう。

秘書給与疑惑でつい先日議員辞職した辻元氏。辞職直後のインタビューで、一部の閣僚級や議員らが、いさぎよい、とする趣旨のコメントを出していた。愚かな、といいたい。報道陣の前で「事情は一切知りませんでした」という旨の返答を最初にしていた辻元氏は、時の経過とともに新事実が出るや、「間違ったお答えをしていました」と、手の裏を返した。みずからの事務所を牛耳っていた辻元氏が秘書給与に関し、事の詳細を知らなかったはずはない。知らなかったのではなく、知っていながら報道陣の前で「嘘」の返答をしたことは、勘の鋭い国民なら容易に察し得たのではないか。ぎりぎりまでとぼけてみせ、逃れられなくなると態度を豹変する。まぎれもなくこれは、不正を曝露された国会議員の過去から現在に至るまでの連綿とした常套手段である。

不正が明るみになっていない時点では、ある種時間稼ぎのために「知らない」といいはれる。しかし、世間は甘くはない。当の本人も驚くほど、瞬く間に新事実がまな板の上に並べられ、「申し訳ございませんでした」の言とともに議員バッジを外すはめになる。今回の辻元氏についていえば、「いさぎよい」とすれば、雑誌に暴かれた最初の時点で、いずれは明々白々になる事実を素直に認めてバッジを外すことではなかったか。そうして初めて、鈴木宗男議員を国会で徹底追及したあの姿が価値あるものとして国民の心に残る。辻元氏のいう「七転八倒した」というのは、辞職を避けられぬことへのあがきと苦悩であり、かつ鈴木氏や加藤氏を揶揄した"他に辞めるべき議員が"、という趣旨の言動からも真の反省はうかがえない。伝わってくるのは、栄達の階段を踏み外した彼女自身の悔しさのほとばしりである。

議員辞職願いを衆議院議長に手渡す際、辻元氏は「再生します」という意味の言葉を吐き、記者団に対して「再び戻ってきます」とコメントした。厚顔無恥とはこのことではないか。再び国民の負託に応えるべく国会に舞い戻るというのか。立件できるかどうかは別問題であるとして、今回の秘書給与疑惑には詐欺の臭いすら漂う。議員が辞職するということは、完全に政界から身を退くことを意味するものでなくてはならない。でないと、今後、こうしたケースが発生した場合、「また戻ってきました」と、しらっとした顔で同僚議員らと握手を交わす、そんな光景が日常茶飯事になってしまう。数日来のテレビ報道でも過度と思えるほど、辻元氏の生い立ちからさっそうと初当選したときの様子、そして今に至るまでの"活躍"を繰り返し流していた。中には今回の辞職に同情の眼を向けさせるような演出まであった。

きょう現在"主役"は、加藤氏に取って代わったが、それまでは辻元氏が渦中の人で、最大のニュースバリューがあるのは一歩引いて理解できたとして、国民の同情をあおるようなテレビメディアの演出はフェアではない。今や強大な勢力であるメディアが、不正疑惑で辞職した議員が再出馬した際の追い風になるような報道手法など、取ってはならないのである。仮に次回衆院選に辻元氏が再出馬したとして当選するかどうかは有権者の判断だが、再び当選するとすれば有権者の良識に「?」を呈さずにはいられない。再当選できるとすれば、何も今回、責任をとって辞める必要などなかった。潔白ならば、である。辞職するということは不正を本人が認めたことを意味する。過去の活躍はどうあれ、そのような人物が再び国民の代弁者になっていいはずはない。それが道義であり、政界での「しめし」というものではないか。でなければ、辞職はまったくの茶番である。

いや、むしろ今回の辻元氏の辞職劇には、野党の戦略臭がぷんぷん匂う。社民党はもとより野党にすれば、辻元氏を今辞めさせておかないと、鈴木宗男、加藤紘一両議員を辞職に追い込めなくなる。現状からすれば、鈴木氏の辞職まではやや時間を要しそうだし、政治資金を自宅マンションの家賃に充当していた加藤氏も、きょうの発言では「辞めるつもりはない」とし、"あがき"の構えをみせている。辻元氏同様、加藤氏の辞職も道義上避けられぬことであるし、鈴木氏もあれだけ国民の政治不信をあおり、郷里北海道からも「辞職を」の声が高まっているのだから、早急に議員バッジを外すべきである。テレビカメラの前で男泣きをしてみせても通用するものではない。自民党を抜けただけで過ちを払拭できると考えているとしたら、大変な認識の欠落ではないか。そのような者を国民の代表として当選させ続けてきた有権者の責任は、ことのほか大きい。

ところで、鈴木氏が自民党を離脱した後、元総理の森氏は「日本の政界はみんなが寄ってたかって糾弾する悪習がある。本人が反省しているのだから、あまり攻め立てるものではない」という趣旨のコメントを出した。いわば鈴木擁護論。森氏自身、ハワイ沖で実習船が米潜水艦と衝突して多くの尊い命を失った際、第一報が入っても休暇ゴルフを中断しなかったなどとして徹底的にたたかれ、総理の辞職に追い込まれた。それ以前にも「神の国発言」で首相どころか国会議員としての資質を疑問視された経緯があるが、恐らくそうした"経験"が「反省している者をそんなにいじめるな」といわしめたのであろう。確かに、盲目的に徒党を組んで1人を袋だたきにする日本人の国民的気質は国内外の多くの学者や国民自身が指摘するところであるし、実際に否定はできない。しかし、そうした次元とは別に、正すべきは正していかないと、結局はこれまでの日本政治の体質である、国会議員が不正をしても、なあなあ、で済まされることになる。強大な力で有形無形の圧力をかけながら政界を泳いできた鈴木氏を、間接的ながらも擁護した森氏の国会議員としての資質には、やはり疑問を呈さざるを得ない。

議員辞職の有無について、小泉総理、福田官房長官を含む複数の閣僚は「本人が決めること」「本人の決定を尊重すべき」との考えを毎回示す。確かにそのとおりではあるが、その返答はあまりに教科書的、マニュアル的で主体性を感じさせない。辞めるかどうかは本人が決めることはいうまでもないことであって、現状についてどう考えているかという点では、大方彼らは茶を濁す。「私は○○だと思います」と明確な意見を国民に示すべきではないか。特に小泉氏の場合は、「○○に一任しておりますので」「○○にお任せしておりますので」の"げた"預け的なコメントが多い。それに対して国民の多くは「無難な答えだな」と思うであろう。不正をしたがゆえに辞職に追い込まれている議員に関するコメントは、総理の立場でもっと明確な持論を示すべきではないか。このままでは「頼りない」という印象は拭いきれず、支持率が下がっても仕方がないのである。