デスクの独り言
                           
第31回・14年3月24日

俳優鶏

NHK大河ドラマ「利家とまつ」に出演する4羽の比内鶏の"続編"を記してみたい。1月25日付コラムでは、4羽の出演は4月28日放送の第18回と紹介させていただいたが、6月9日の第23回にも出演することになり、1月から今月にかけて都合3回、彼らはロケ地に旅立っていった。ギャラもきちんとちょうだいしているので、人間の俳優並みである。こうなると、ただの「比内鶏」というわけにはいかない。きちんと芸名もつけてやらにゃあいかんなあ、と思い立った。出演デビューが時代劇なので、それなりの名前を、と考えたところ、決まったのが、歌衛門、その妻よね、庄助、その妻あぐり。彼らを家族の一員に加えることにした。

再び彼らの出演依頼が入ったのは今月中旬のこと。松嶋菜々子さん扮するまつが可愛がる比内鶏の"役"。松嶋さんとは3度目のご対面となる。関係者によると、淡いベージュ色が自慢のあぐりを松嶋さんはいたく気に入り、撮影スタッフらの前で抱いてみせたという。小さな犬や猫ぐらいなら「かわいい〜」といって胸に抱くこともあろうが、鶏を、それも今をときめくスターの松嶋さんが抱いたと聞いて、おおっ、と唸ってしまった。一般人でも鶏はあまり抱かない。松嶋さんの眼に、あぐりがそれほど可愛く映ったということなのであろう。「松嶋さんって、とにかく気さくな人なんですよ」と、関係者は受話器の向こうでいった。

それだけではない。台本には、まつが鶏を抱くシーンなど1行もないのだが、あぐり(もちろんこの名は松嶋さんは知らない)を抱くシーンを入れてほしい、と松嶋さんは監督らに頼んだという。撮影陣にすれば、犬猫を抱くシーンは急きょ入れても不都合はなかろうが、鶏はどうもなあ、と絵的な向き、不向きを考えたのだろう。結局、OKは出されず、「残念、こんなにかわいいのに」と松嶋さんはいったのだが、その話を聞かされた時、ふだんからとても感じの良い女優さんなのだろうなあ、と喜んでしまった。全国に多くのファンがいる俳優、アーティストでも実際の現場となると、ブラウン管のこちら側から見る態度との落差が著しかったりする。その落差がなく、周囲にも気持ちの良い俳優、女優があの世界では長く生き残っていく。松嶋さんは数少ないそうした女優なのではないか。でなければ、わざわざ鶏を胸に抱くようなことはしない、と思う。

さて、歌衛門、よね、庄助、あぐりの話に戻る。歌衛門と名づけるには、それなりの理由がある。とにかく鳴き声がすばらしい。一瞬、声良鶏かと思わせる。「もうじき全国大会に出られるな」と冗談まじりに声をかけてやると、「そうだろう、そうだろう」とでもいいたげな顔でニ度、三度と鳴いてみせる。最近は「コケコッコ〜」の「〜」の部分に独特な捻りが入ってきた。が、惜しいかな、歌衛門は性格が悪い。とはいえ、彼の苛立ちはわからぬでもない。原因は庄助の極度の"音痴"にある。庄助が鳴き出すと、「やめろ、飯がまずくなる」とばかりに、歌衛門は庄助の後頭部をしたたか小突きにかかる。

庄助は「コケコッコ〜」とはいかない。「コケコッコ」で止まる。時々「〜」がついても、聞き苦しいほどに半音下がる。一度などは、宗教の勧誘に来た2人の女性の耳に庄助の"音痴"が届き、露骨に吹き出されてしまった。人間の私ですら、頼むからやめてくれ、と懇願したくなるほどだから、むしろ歌衛門の性格が悪いというより、ほかに同種族のオスたちが聞いたら歌衛門のみならず庄助を袋だたきにするに違いない。喉の使い方が巧みな歌衛門に"妙技"をいやというほど見せつけられ、あそこまでいかなくとも妻の手前せめて一丁前に鳴きたい、というオスとしての庄助のプライドはわからぬでもないと、つい同情してしまう。しかし、人間にも歌が達者な者と音痴な者がおり、カラオケがうまくなりたくとも一生上達しない者がいるように鶏の世界にもいかんともしがたい、持って生まれた天賦があるのだろう。鳴き方が下手だからというわけではなく、歌衛門に小突かれ続けても一生懸命喉を嗄らす姿がどことなく間が抜けて滑稽なので、庄助と名づけてしまった。世の庄助さんが、どうということではない。

鳴くたびに歌衛門に小突かれるものだから、庄助の後頭部は人間の寝癖のついた髪の毛のように起き上がっている。どんなにいじめられても、慰めてくれるのは良き女房あぐり。松嶋さんに抱いてもらった、あの果報者である。が、なぜかあぐりは性格が悪い。鶏の世界にもルックスの良し悪しがあるのかどうかはわからないが、人の"尺度"で見れば歌衛門の妻よねより、庄助の妻あぐりの方が美しい。実は、3度目の撮影は「これまでのオス、メス2羽ずつではなくオス2羽にメス1羽でお願いします」とのオーダーだった。淡いベージュ色のあぐりを選び、チョコレート色のよねが留守番をすることとなった。色だけではなく、よねには悪い癖がある。羽ばたけるのに、骨折でもしたかのように片方の翼を少し下げる。これだと撮影にも苦労するだろう、とよねを外した。

歌衛門が庄助をいじめるのに対し、夫へのいじめの報復でもするかのごとく、あぐりはよねをいじめる。報復というより、「私の方がきれいなのよ、不細工なあんたはあっちへ行って」とも、見ようによってはとれる。もちろんそれは人間による勝手な推測でしかないのだが、ともに生活をしてみるとそれぞれに性格が違い、それぞれが何を嫌い何を好むかが手にとるようにわかってくる。姿形こそ異なれ彼らには確固たる性格が形成され、われわれ人間が翻訳できないだけで本当は明確なコミュニケーションが体系化しているようにも思える。いらだち、孤独といった情動も彼らは人間並みにたずさえている。

その一例が、3度目の撮影でよねが取り残されたときのこと。歌衛門、庄助、あぐりは3日ばかり留守にした。その間のよねの落ち込みようは尋常ではなく、餌をやろうとするとそっぽを向き、代わりに「どこへ連れてったのよ」と、恨みがましい視線を向けた。こちらも、鶏流の宥め方などマスターしていないものだから、「もうちょっとしたら帰る」などと人間の言葉で慰めてはみるのだが、悲しいかな通じない。

撮影を終えて帰った来たときの、よねの喜びようはどう形容したらいいものか。歌衛門、庄助、あぐりは「なんで何回もダンボール箱に詰められんだよ」という不満たらたらの顔で鶏舎にもどってきたが、肉にしないできちんと帰してくれたことへの礼のつもりか、はたまた人間との信頼関係を構築できたことの意思表示か、よねだけはその夜から直接手から餌を食べるようになった。輪廻転生という言葉があるが、彼らと接していると鶏になる前は人間だったのではないかと、思いたくなる時がある。「何かの占いで、うちには動物はいつかないそうだ」と家族がいった。昨日から、よねの調子がどこやらおかしい。生きていてほしい、と願っているが、いやな予感がしている。