2002年、混沌、誠意 2002年が明けたと感慨に浸っていたら、瞬く間に三が日が過ぎ、きょうからはいよいよ社会が本格的に動き出す。昨年は公私ともに激動の年だったが、今年は昨年以上という予感がある。大詰めを迎えた米同時多発テロに端を発するアフガン問題。当然のことながらこれは、今年も国際経済への影響を含めて深刻な影を落とし続ける。そして国内に眼を向けると完全失業率5.5%、完全失業者350万人、うち世帯主は初の100万人突破の101万人。まさに混沌としている。 あの「9.11」の衝撃はこれからも、世界中の人々の心に刻印として残るだろう。ブッシュ大統領の最終判断でアフガニスタンに攻撃をかけたのは「大義名分」上いたし方ないとして、攻撃前から憂慮されていたように米軍の空爆によってアフガン国内のあまりにも多くの市民が巻き添えになり、あまりにも多くの孤児を生み出してしまったことをブッシュ氏はどう考えているのか。 「9.11」で行方不明になった青年の父親が、タリバンへの攻撃直前、ブッシュ大統領に「攻撃をすれば罪のない人々に多くの犠牲者が出、同じことの繰り返しを避けられない。私の息子や犠牲になった他の人たちはそれを喜ぶでしょうか。決して喜びはしないし、望みもしません。どうか攻撃を思いとどまって下さい」という趣旨の手紙をしたためた。「大統領閣下のご返事をお待ちしております」と書き添えたが、ブッシュ氏から理解を求める返事など届くはずもなく、「反戦世論」が高まる前に攻撃は始まった。 世界が一致協力してテロを根絶する。これはとても重要で世界中が手を取り合って成し遂げなければならないことである。しかし、「9.11」で約6,000人の犠牲者が出たからといって結果的に多くのアフガン市民を死に追いやり、大勢の孤児を生み出していいという理由にはならない。手っ取り早く成果をあげるために空爆の選択肢を選んだのだろうが、多くの民間犠牲を強いたという悲惨な結果からすれば、市街地で空爆などすべきではなく、難攻不落の土地でどれほどの月数を費やそうと地上戦に徹底すべきだった。 「あの戦争は米国の軍需産業に活力を与えるのが主目的だったのではないか」と分析する人間も、今、世界中にいる。ブッシュ氏は反論するだろう。「いや、あれは正義なのだ」と。だが、政治家の理論のすり替えに乗せられるほど世界は愚かではない。オサマ・ビン・ラディン氏を映したビデオを昨年暮れ、米政府は公開したが、あれが本物だと信じるほど世界は愚かではないのである。逆に、あのビデオによって米国政府に不信感を募らせた人も多いはずだ。 NGOなどの支援物資で孤児たちは今、命をつないでいる。日本人のNGO関係者からパンを手渡された少年が発した言葉は、複雑な思いに駆らせた。ひときれのパンを大事そうに両手で包み込みながら、少年はいった。「日本は大好きだ」と。アフガン攻撃を後方で支えたのは日本の自衛隊、つまり日本そのものである。直接的に市民を死に追いやったのは自衛隊でなかったとはいえ、米軍を後方で強くサポートしたことからすれば、間接的には多くの孤児を生み出したことに日本も荷担したことになる。間接的に、彼らから親を奪ったことになる。「日本は大好きだ」。その言葉の意味するところは、大量の援助物資を届けてくれるからか。それが孤児である絶望的境遇との引き換えなら、まったくわりに合わない。ただ、親を失ってしまった事実はどうしようもない。日米両国政府にできることがあるとするなら、彼ら孤児が一人前の大人として自立するまで、誠意を持って支えてやることではないか。アフガン攻撃に加わった国々にはその責任がある。 一方、国内に眼を向けてみると、あまりにも深刻な大量失業。暮れにテレビのニュースや新聞が、「民間企業の冬休みは平均○日」という報道をしていた。全国350万人の完全失業者の大半は、子どもにお年玉もやれない、おせち料理を口にすることもできない絶望の中で新年を迎えている。この"冬休み"は永久に続くのではないかという強迫観念に翻弄されながら新年を迎えなくてはならなかった失業者。そうした人々をさらに落ち込ませることも考えずに、「民間企業の冬休みは平均○日」などという愚かしい報道には誠意など微塵も感じさせない。以前のコラムでも触れたが、何を報道すればよく、何を避けるべきかをメディアはきちんとわきまえるべきなのである。 完全失業率5.5%という数字に対しては疑問視する向きもあり、調査基準によっては5.5%どころではないという見方もある中、国の対策を待つだけではなく都道府県も腰をあげ、全国で1万人余の雇用を確保しようとしているという。中でも不況色の濃い秋田北地方のある町では、全世帯の6割に失業者がおり、その大半が世帯主という異常事態。国、都道府県、市町村のてこ入れによって雇用の場が創出され、寒さに凍えている家族に1日も早く笑顔が戻ることを願わずにはおれない。 最後に、人間は誠意と良識をなくしてはいけないという話を一つ。昨年、社長と折り合わず自己退職したA氏が、人に使われるのは性に合わない、事業をやることにしたので一緒にやらないかともちかけてきた。「法人なのであなたが社長に」と。私自身が社名をつけた後に事業計画は白紙になった。しばらくして「あの社名を使わせてくれないか」とA氏が頼み込んできたのに対し、「考えさせてほしい」と即答を避けたら、「了解を得ないで登記をすることもできる。しかし、それはしたくない」とA氏は、了解を得ずに使用せぬことを約束した。 その後やりとりもなく月日が経ったが、大晦日直前になって新聞にちゃっかりその社名で、間もなくオープンしますという旨の広告が掲載されていた。A氏は前の会社から営業スタッフをすべて引き抜いたため、前の会社は事業内容の大幅な変更を余儀なくされ、店舗も移転した。A氏の行動が社長に苦々しい思いをさせたのはいうまでもない。そして、合意形成を欠いた社名使用。「了解を得ずとも先に登記をしてしまえば、こっちのもの」との結論に、みずからを落ち着かせたのであろう。 憤慨した、というより、一つの教訓を得た。人間関係を粗末して起業したところで、いずれ破綻は眼に見えているということ。実はその社名、秋田県が総力をあげて県を活性化しようと名づけた総合計画名と寸分の違いもない。よくよく考えると、民間事業所がその名称を社名に使用するのは、まずい。行政の事業名と民間事業所名が同じであること自体、県の事業との事実誤認や便乗商法を含め、県民や県行政との間に何らかのトラブルや支障、混乱を招きかねない。社名は個人の氏名と同様きわめて重要なものであるにもかかわらず、短絡的な使用はまさに思慮と分別を欠いている。はてさてその会社、創業の今年、すったもんだの社名と立ち上げに至るまでの経緯からして、顧客に誠意を示せるのだろうか。いささか疑問である。 |