デスクの独り言
                           
第24回・13年12月2日

犬は人間のお友達

人類はいつの時代から犬とつきあうようになったのだろう。古代にはすでに狩りの供(とも)としての役割を果たし、かつ、ペットとして家族の一員として今のような"地位"を築いていたのだろうか。人によっては、そばにいてくれる犬の存在はかけがえのないものといえよう。

先日、小学校教員と新聞記者を経て今は精神薄弱者更生施設の係長職にある友人O氏が、職場の同僚K氏とともに遊びに来た。O氏との出逢いは彼が地方紙記者時代の平成3年だから、つきあいはかれこれ10年になる。T大学の武道学科を卒業した彼は剣道、居合道ともに五段。21世紀の現代に至っても「武士道とは」と熱っぽく語る一方で、軟派な話をさせても右に出る者がいないほど舌がまわる。先日も、やや不謹慎ながら興味深い話を披露した。

秋田県のある町に「犬殺しの○○」の異名を持つ人物がいるという。飼っていた犬が何かの事情で飼えなくなってしまうことがある。そこでその人物の登場と相成り、数時間後には犬は鍋に入り、時には集落の寄り合いなどで出席者らに振舞われる。食料のない戦中や戦後まもなくならば、犬や猫がタンパク源に代用されるのは珍しくもなかったはずで、日本映画やその時代を描いたテレビドラマでも犬鍋を家族や仲間たちでつつきあう光景を目にしたことがある。

「今の時代でも犬を喰う人間がいるのか」と彼に訊いてみた。未開発地域やアフガニスタンなど難民があふれている国では不思議ではないのかも知れないが、こと日本で、それも21世紀の現代に至っても犬を喰う人々がいるとは理解に苦しむ。いわゆる「ゲテモノ喰い」と呼ばれる人々は犬であろうが、猫であろうが、鼠であろうが、喰うのではあろうが。前夜の酒による二日酔いに翻弄されつつ、トイレと居間を何度か往来していたK氏が、たまりかねて口を開けた。「犬は人間のお友達。喰ってはいけません」。犬を喰うという事実が腹に据えかねたのか、1時間の間に「犬は人間のお友達」と、何かにとりつかれたかのように10回ほど連発した。

そこで、論破好きなO氏が切り返す。「犬を喰うという感覚は、当然ながら今の若い世代にはまったくないだろう。しかし、戦争をはさんで貧しさのどん底の中で育った人たちの中には、その感覚は今も残っているはずだ」。O氏曰く、「口にこそ出さないが、農村部に住む一定の年齢以上の者で犬を喰ったことのない人は少ないのではないか」と。「あなたは喰ったことがあるのか」と50前のO氏に訊ねる。いわくありげな表情を貼り付け、にやりとほくそえんだ。「うちの冷蔵庫の冷凍室に一塊、もらいものが今も入っている」。犬肉を鍋に入れて客人に振舞うときは、たいていの場合、それが犬であることを伝えないのが常識なのだという。客人は「この肉、うまいな。ウサギか」といいながら頬張る。正体を知るのは主(あるじ)のみという光景を思い浮かべてみると、不謹慎ながら何とも滑稽に思える。

「冷蔵庫にあるのが犬の肉だと息子たちにも明かしたのか」とO氏に質問をたたみかけると、「息子たちには正体は明かさないし、喰わせもしない。親父と焼肉にして喰う」という。70代後半で剣道七段の父親とその息子が額をつきあわせて犬肉を喰う光景は、どこやら野武士然としていて、想像しただけで噴き出してしまう。そうしたやり取りを尻目に、30代のK氏は「犬は人間のお友達。喰ってはいけません」と、再び苦々しげにいった。犬を喰うという行為は、犬を愛でる人々にはまったく解されぬ行為、かつ許されぬ行為ということになる。まして、動物愛護に関する改正法が施行された現在に至っては、事と次第によっては手錠をかけられかねない。

ただ、ひっかかることがある。犬と鶏をペットとして飼っている農村家庭があったとする。慶事だというので、「鶏をつぶす(料理するの意)」。飼育していた鶏を鍋に入れる分には、誰も鶏冠(とさか)を立てたりはしない。「犬は別格なので喰ってはいけない。でも、鶏や豚や牛だったらいいよ」という理屈。こんな例もある。先月、秋田県内の小学校である"事件"が物議をかもした。児童らが大切に育ててきた鶏たち。「感謝祭」と称して秋には児童らに「鍋」として振舞われる学校は、地方を中心に今も存在する。が、その学校では「愛情を注いで育てたものを殺して子供たちに食べさせるのはいがかなものか」と取りやめた。教育的見地と動物愛護への配慮。

確かに「犬は人間のお友達」かも知れない。なら、犬と一緒に庭先を駆け回っていた鶏なら首をひねってもいいのか、ということになる。「いいえ、犬は別格なのです。同じ次元で論じてはいけません。鶏や豚や牛たち家畜は食べられるために生まれてきたのです」と、しらっとした顔でのたまう人は多いかも知れない。「家畜を喰えなかったら、何を喰うんだよ」と激怒するグルメもいるかも知れない。飼育していたか否かはどうあれ、食卓に並ぶ家畜の肉は違和感はないが、犬肉だとやはり不自然すぎる。

ところで、SF作家の筒井康隆氏はさる5月、人気番組「笑っていいとも」でタモリ氏に面白い話をしていた。「今度ヨーロッパに行くんだけど、北欧まで足を延ばして鯨を腹いっぱい喰ってくるつもりだよ」と。「鯨も喰えなくなったよね」とタモリ氏。さらに二、三のやり取りを交わした後、筒井氏は「鯨を喰ってはいけないなら、牛や豚だって喰ってはいかんのじゃないか。鯨ならだめ、牛や豚ならいいという論法自体無理があるんだよ」と、ぶちあげていた。犬は喰ってはいかんが、家畜ならいい、と符合する話である。