デスクの独り言
                          
第2回・13年6月3日

生き続ける「花岡事件」

田代町の彫刻家、松田芳雄氏が「花岡事件」の教訓を忘れず日中友好を21世紀に受け継いでいくことを趣旨とするコンサートを開くために、奔走している。

太平洋戦争末期、大館市の花岡鉱山に強制連行された中国人が過酷な労働に抵抗して一斉蜂起し、986人もの尊い命が失われた「花岡事件」。20世紀終焉目前の昨年11月、中国人原告団と当時の雇用主鹿島(旧鹿島組)との間で和解に至ったが、鹿島側は今も「謝罪」を拒否しているため、原告団の間では不満がくすぶっている。だから、真の意味での和解とはいいがたい。

私は花岡で生まれた。父もまた花岡で生まれた。ろくに食物を与えられず骨と皮になりながらも中国人は一斉蜂起を決意し、あの山を越えれば祖国に帰れるとひたすら信じて逃げ惑った。しかし、山狩りの末捕らえられ、鉱山会社が所有していた娯楽施設「共楽館」前の広場で見せしめの虐待を受けた。その惨状を父は目の当たりにし、今もはっきりと脳裏に焼きつけている。光景を記憶にとどめている市民は今も数10人はいると思う。虐待は約300人の眼前で行われたそうだから。

この世に生を受けていなかった私はそのときの様子を実感できるはずもないが、「ご出身はどちらですか」と訊かれて「大館市の花岡です」という返答は今もはばかられる。全国の多くの方が知っている。「花岡」といえば「あの花岡事件の地」であることを。生まれたその地を誇れない。本当は自然の豊かなとてもすばらしい地なのに、である。戦後史に残る汚点の舞台となっていなければ、私は花岡という地をこよなく愛していたに違いない。

今から23年前のこと。私は田舎新聞の駆け出し記者だった。朝日新聞記者、清水弟氏が秋田県の小さな出版社から「花岡事件ノート」という書籍を刊行して2年が経っていた。本当は地元紙が早くから記事や特集などで「花岡事件」を掘り下げていくべきだったが、タブーでもあるかのように田舎新聞の誰も書かなかった。ある日、私は50枚の特集原稿にまとめ、編集長に差し出した。受け取りはしたが、いつまでたっても掲載されなかった。業を煮やして訊いてみた。「あの原稿はボツにした。あんな特集を載せて、花岡で新聞の不買運動がおきたらどうするんだ」と一蹴された。

間もなく、NHKが全国に「花岡事件」を報道し、右習えでほかのマスコミもなびいた。それまで歴史の片隅に埋もれていた「花岡事件」が全国に知れわたるまで、さほどの時を要しなかった。いくら腰の重い田舎新聞とはいえ、ご当地の新聞社が何もしないわけにはいかなくなった。結局、能代市のルポライター野添憲治氏を担ぎ出して、1年間連載をした。一種の「人の褌」。抗議や不買運動がおきても「あれはうちの記者が書いたものではない」と逃げを打てる。責任を持たない、というより持てない。今も昔も田舎新聞とはそんなものである。

以前、野添氏はこう話していた。「花岡事件の取材をしているとき、多くのいやがらせの電話を受けた。どうして、よそ者が花岡のことに首を突っ込むんだって」。田代町の松田氏もまた、隣町とはいえ「よそ者」である。

一斉蜂起の中国人のうち7人が、当時松田氏が暮らしていた「越山」という集落に命からがらたどり着いた。が、すぐに捕まり地元民らによって袋だたきにあっているところを10歳の松田少年は目撃した。危険を顧みずに虐待を止めに入った1人の女性がいた。まぎれもなく少年の祖母だった。「そこに憲兵が居合わせたら、ばあさんは中国人に味方した罪で殺されていたかもしれない」と松田氏は56年経った今、振り返る。そしてまた、「立場が逆ならどうなってたんだ!」と周囲を一喝した祖母の言葉は深く鼓膜にこびりついている。あの7人は今、生きているだろうか。一昨年中国人原告団リーダーに調査を頼んだが、今も返事はない。少年時代の体験が、何としても7月1日のコンサートを成功させたいという原動力になっている。

開催費用は最低でも300万円。胸像制作を請け負わないと捻出はむずかしい。行政はカネを出してくれない。大館市内のいくつかの団体に協力を呼びかけているが、今の時点では快い返事はあまり得られていない。「どうしたらいいもんだろうね」と松田氏が珍しく気弱になる。そこへ、いかにも行政然とした2人の男が現れた。田代町役場税務課職員。職員らはバツの悪そうな作り笑いを頬に貼りつけている。滞納税金を徴収に来たらしい。「心配すんな、ちゃんと払ってやるから」と松田氏は強い口調で追い返した。ヴェートーベンやショパン、そして一国の大統領の胸像も依頼され、日展審査員という大きな肩書きまである。しかし、生活は豊かなわけではない。一般人よりも質素すぎるほどの暮らし。にもかかわらず、徴収担当者を追い返してまで自力でコンサートを成し遂げようとする。いくらがんばっても二百数十万円の欠損が出ることは目に見えている。「私自身の人生の中でこれは、どんなことをしてもやっておかなくてはならないことなのだ」と、握り拳に力を込めた。「花岡事件」への執念のようなもの……。

一斉蜂起した中国人が見せしめの虐待を受けた共楽館前広場の跡地には今、市立花岡体育館がある。長年タクシードライバーをして春からこの体育館の管理人を任されている初老の男性。「私も同じ村の出身だから、松田先生のことはよく知っている。立派な人だ。でも、花岡に移り住んでから何十年にもなる私としては、花岡事件のことが世の中に伝えられるたびにとてもいやな思いがする。加害者の立場にあった人の中には存命している方もいるんだし。もう、そっとしておいてほしいんだよ」と話す。

21世紀初めの、また和解後最初の中国人殉難者慰霊祭が今月30日に花岡で行われる。その翌日には、慰霊祭参列の中国人を招いてコンサートは開かれる。今も生き続ける「花岡事件」への思いを胸に、松田さんはあらゆる苦難を乗り越えて人生の一大事業を成し遂げようとしている。


花岡体育館前には松田氏の
「日中友好平和祈願の像」が
ひっそりとたたずんでいる。