老害。高齢者を委縮させるこの表現が使われるようになってから、どれほど経つだろうか。何者がいつごろから使い始めたのか、AI(人工知能)にこの問いを投じてみた。
考えられる起源
社会の変化に伴う世代間の摩擦: 社会が大きく変化する中で、世代間の価値観や考え方の違いが顕著になり、その摩擦の中で生まれた言葉である可能性があります。
特定の集団やメディアによる広がり: ある特定の集団やメディアがこの言葉を積極的に使用し、それが広く拡散された可能性も考えられます。
既存の言葉の転用: 既存の言葉に新しい意味を重ねて、新しい言葉として生まれ変わった可能性もあります。
上記、赤文字がAIが示した回答である。
次に「老害」という言い回しに問題はないのか、とたずみてみたところ、
「老害」という言葉は、年齢を重ねた人を一括りに否定し、差別する言葉として捉えられます。これは、年齢を重ねることは悪いことであるという誤った認識を助長し、社会全体の多様性を損なう可能性があります。
より良いコミュニケーションのために
「老害」という言葉を使わずに、年齢や経験を尊重した表現を使うことが大切です。例えば、「意見が異なる」「考え方が違う」など、具体的な言葉で表現することで、より建設的な対話ができるようになります。
と、AIは答えた。さもありなん、である。
筆者の友人の中で最も高齢な、70代前半の男性が大館市立総合病院でワクチンを接種した際の「とても嫌な思いをさせられた」経験を話してくれた。
無言で注射針を腕に刺そうとする女医の傍らで、30歳前後とおぼしき若い看護師は友人に言った。
「ちょっとチクっとするけど、痛くないよ〜」
幼児をあやすかのごとき、ため口に友人は一瞬呆気にとられつつも「おめェはいっつも人生の先輩がだサ、わらしあやすよんたしゃべかだ、スやったが?!(お前はいつも人生の先輩たちに、幼い子をあやすような言い方をするのか?!)」と注意しようとした。
しかし、少し前に「怒りを抑えられなくなるのが老人脳の証だ」という一節をネットで目にしていた彼は、叱咤の言を飲み込んだ。同時に、眼前の若い看護師を叱ろうものなら、反省どころか後で同僚に「説教垂れるじじい、老害だよね〜」と得意げな顔で笑い話にするかも知れない、などと余計な思いまでめぐらせてしまった。が、日が経てば経つほど、小馬鹿にしたような、失礼の極みともいえる態度が思い出されるとともに、なぜ一言注意できなかったのか、後々悔やまれたという。
仮に当の看護師が「親しみを込めて言ったつもり」と釈明するとしたら、配慮の欠落が甚だしい。そもそもどういうつもりで言ったなどということは重要ではなく、発した一言に対して言われた本人や周囲がどう感じたか、がすべてであると筆者は断じたい。「とても不快だった」と言葉を浴びせられた人や周囲に思われたらそれがすべてなのであり、言った本人の真意など意味をなさぬに等しい。
高齢者を不快にさせる態度や言葉は、看護師に限ったことではない。あと一つ例を挙げると、大館市のほぼ中心部に位置する大型ショッピングセンターでのこと。何人もいるレジ係の半数近くは、客の年齢層によって接客態度を変えたりする。筆者がレジで勘定を済ませようとすると、一応ながら終止丁寧な態度。しかし、高齢者、とりわけ後期高齢者に対してはぞんざいな言葉遣いになる光景を幾度も目にしてきた。
例えば、「これは、こちらのかごに入れてもらっていいですか」と後期高齢客が丁寧な口調で頼むと、レジ係は「いいよ。こっちサひればいいんだな(こっちに入れればいいんだな)」といった具合に、高齢者への尊敬の念がどこにも存在しないどころか、明らかに粗末な態度。
にもかかわらず、レジ係に嫌われたくない、あるいは「めんどくさいとしょり(面倒くさい年寄り)」と思われたくない、つまり「老害」のレッテルを貼られたくない後期高齢客は不快でもじっと我慢をしている。少なくとも、列に並びながら様子を観察する筆者の目には、いつもそう映る。
「老害」という表現の根底には「年寄りは、うるさいことは言わず、じっとおとなしくしていろ」という、ある意味"邪魔者"としての意識が働いていると推察される。
しかし、戦後日本を支えてきたのは、人生の先輩たちたる高齢者であることを忘れてはならないし、若い世代もやがて「老害」と呼ばれるようになったら自分たちはどう思うだろう、という点も肝に銘じるべきではないか。
せめて自分だけは高齢者による行いを「老害」という色眼鏡では見ない。そうした意識を持つ国民が少しでも増えていくことを願いたい。
また、若い層を中心とする高齢世代ではない人たちにも至らぬ点は山ほどあるのだから、注意すべきは注意する、叱咤すべきは叱咤する、いわば老害などと侮られぬ確固たる信念にこそ高齢世代の存在意義があると考えるが、いかがだろうか。
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