デスクの独り言

第109回・2014年10月11日

ノーベル平和賞 

 ノルウェーのノーベル賞委員会は10日、今年のノーベル平和賞をパキスタンのマララ・ユスフザイさん(17)と、インドのカイラシュ・サトヤルティ氏(60)の2人に授与すると発表した。このうちサトヤルティ氏は80年代以降、児童労働の根絶活動に身を捧げてきた。いわば、30数年にわたる取り組みが評価されたことになる。

 基本的に同平和賞は短期的にではなく、長期にわたって人権問題に尽力したり世界平和などに向けて献身的に身を捧げ、かつ、世界に大きな共感を与えた人に授与されるべきでなくてはならないと考えるが、いかがだろうか。然るにマララさんについては、いかがなものか。2009年に同賞を受賞した米国のオバマ大統領の時と同様、「それはないだろう」と、授けたノーベル賞委員会に失望せずにはおれなかったというのが偽らざる感想である。

 2007年に発足したパキスタンの反政府武装勢力TTP「パキスタン・タリバーン運動」が行う女子教育抑圧をマララさんは、2009年からブログなどで告発した。インターネットを活用して政治や思想、社会、組織などを批判し、自分の意見を主張する人は世界中にいる。よって、それ自体は当然のことながら、同平和賞を授与される行動にはなり得ない。

 目障りまたは苦々しく思っていたのであろうマララさんを、TTPは2012年10月に銃撃。頭部に銃弾を受けた彼女は生死の境をさまよったが、一命を取りとめ、今は家族と英国で暮らしている。同平和賞の決め手となったのは昨年7月の誕生日に国連で、銃弾が自分たちを黙らせると思うのは間違い。1冊の本、1本のペンが世界を変えられるという趣旨の演説だ。

 それは確かに、世界的に共感を呼んだろう。だが、それだけで同平和賞を授与するというのなら、オバマ大統領の時と同様、同平和賞そのものが色あせてしまう。国連での演説を皮切りに、母国パキスタンのため、そして世界のために、長年にわたって献身的な活動をして初めて授与されるものでなくてはならないのではないか。演説で世界中の共感を呼んだから、との理由で授けるべきものではないはずだ。

 発表当日、ノーベル賞委員会のヤーグラン委員長に対して記者団からは「若すぎるのではないか」との声が上がり、彼女が実際に何をしたのか、つまりいかなる実績があっての授賞なのかと、授賞そのものを疑問視する見解が聞かれた。当然であるし、記者らがそうした質問をしないとしたら、報道人たる意味がない。

 これに対して同委員長は、彼女の演説があったがゆえに児童労働についての国際会議が開かれ、国連も取り組みに着手したと"弁明"。百歩譲って、そうした動きを評価したとしよう。だが、マララさんの演説は「何かを始める」足がかりになったにすぎず、彼女自身が取り組みに深く身を投じ続け、明らかに母国、または世界を突き動かしたという次元とはほど遠い。

 つまり、世界を納得させ得る成果が具現化した時点で初めて同平和賞を与えるのでなくてはなるまい。まだ多感な時期の17歳。これから先、自分の信念を貫き続けられるかどうかも未知数、かつ、その若さで同平和賞を受賞した"重圧"に耐えていけるのかも分からない。事実、今授賞は17歳の若さで聖人君子に祀り上げられたようなものである。歴代のノーベル賞の中にも、これほどの若さでの授賞は前代未聞だ。

 たとえマララさん自身が、同平和賞を受けた後で「これからがんばる」という趣旨の発言をしたとしても、「ノーベル平和賞は長年の取り組みへの評価ではなく、ほとんど何もしていない人に対し、実績を上げる以前に称賛や激励するための賞なのか?」と疑問符を呈さざるを得ない。

 前段でたびたびオバマ大統領の名が出てきたが「2万人の増派によって戦火を拡大させた彼はノーベル平和賞を受けるべき人間ではない」など、世界中から批判の声が上がった。2009年4月に彼はプラハで「核兵器なき世界を目指す」と強調し、結果的にそれが同平和賞の授与につながったと考えられる。ノーベル賞委員会としては「実際にそうあってほしい」との願いも込めて同大統領に授けたと察せられるが、授賞から約5年経過してみて、どうだろう。米国が世界最大の核保有国であることに微塵の変化もないばかりか、「核兵器なき世界を目指す」という彼の言動には未だ実効性がない。

 同大統領の時も「授賞は早すぎる」「ノーベル平和賞に値する仕事は何もしていない」などの批判が、世界中で噴出した。核廃絶は不可能だとしても、核軍縮に心血を注ぎ、かつ世界レベルで成果が出てきた時点で、彼に授与しても遅くはなかったのである。そうしなかったがゆえに、同平和賞は価値を損ねてしまった。

  同大統領とマララさんを同一線上で論じるのはむずかしいにしても、授賞時点で「早すぎる」「長期にわたって何も尽力していない」「演説が決め手となった」などの共通点がある。同平和賞は、受けるべき人物が長い年月をかけて積み上げた世界、人類平和のための結晶でなくてはならない、と考えるがいかがだろうか。