デスクの独り言

第106回・2013年8月13日

空手形の119番 

 今月9日発生の「経験したことのない大雨」と表現された豪雨災害は、土石流によって6人が死亡した仙北市とともに災害救助法が適用された大館、鹿角の両市にも甚大な被害を及ぼした。私的なことながら、今回の災害で大館市消防本部に対して落胆せざるを得ない経験を余儀なくされたため、今コラムで取り上げてみたい。

 「大館市」以外、具体的な地名を明確にするのは避けるが、筆者が住む「新興住宅地」は人と人とのつながりが希薄で、東日本大震災の発生当日ですら隣近所が助けあうどころか、声をかけあって安否を気遣う行動すらみられなかった。停電、断水が発生しても、各家々だけで対応する。近場の住民みんなが助け合い、励ましあうのがあるべき姿なのは言うまでもないが、「希薄な近所関係」、それが現実と割り切るしかない。

 9日に発生した豪雨災害時も、大震災と同様だった。隣近所は「対岸の火事」のごとくひっそりとし、豪雨の最中、誰ひとりとして外に顔を出す者はいなかった。

 午前9時前と記憶する。自宅が床下浸水という初めての事態に遭遇した。自宅前の生活路は濁流と化し、床上浸水を食い止めるために路上に足を踏み出してみたところ、滝のごとき急流に押し流されそうになり、断念せざるを得なかった。あの時、濁流に足を取られていれば、高さ、幅とも約1メートルの側溝に飲み込まれ、命を落としていたのではないか。それほど「経験したことのない大雨」だった。

 あと10分もすれば、間違いなく床上浸水という段になり、受話器を取り、119番通報した。「火災ですか、救急車ですか」という趣旨の質問を大館市消防本部の職員がまくし立てた。間もなく水が床上に達するであろう現状を、比較的落ち着いて伝えられたと思う。「土嚢を設置していただけませんか」と、唯一の望みを伝えた。

 番地、電話番号、世帯主の名を問い質す職員。「先ほどから119番が鳴りっ放しです。順番に現地へ向かっていますから、しばらくお待ちください」。消防が来てくれる。これで、何とか乗り切れる。職員の言葉は一縷の安堵感を与えた。が、それは空手形に過ぎなかった。

 翌日、各新聞は甚大な被害をもたらした豪雨災害が1面トップを飾った。その中の1紙に、市内のある地区で住民らをゴムボートに乗せて避難させる大館市消防本部の隊員らの写真が掲載された。限られた隊員数の中で、避難を迫られるなど深刻の度が大きい事態を最優先するのは当然であろうし、それゆえに個人情報まで得ていながら家屋の浸水程度では来てくれなかったのだと納得させるしかなかった。

 が、よくよく考えると本当にそうなのだろうかという思いが、今も胸中でちりちりとしている。救急隊員はいわば、最後の助け舟のようなものである。他の市民がどのような事態に陥っているのか知り得ない中、隊員らが来てくれるのをどれほど首を長くして待っているのかを、市消防本部は本当に自覚しているのであろうか。

 「どうですか? 自力で持ち堪えられそうですか? 今は隊員らの手がいっぱいでどうしても行くことができません。何とか、がんばってください」。映画やドラマの台詞ではないが、市消防本部からそうした連絡が渦中で入れば、もっと深刻な市民のためにがんばっているのだと納得できる。

 が、豪雨当日どころか、後日も一切連絡がなかった。「行く」と明言しておきながら、である。実効性のない119番、かつ、頼りにならぬ市消防本部。そうした烙印を押さざるを得なかった。なぜ、安否を気遣う一本の電話すらしようとしなかったのか。恐らく、浸水に遭遇し、119番通報しても出動どころか連絡すら得られなかった市民は、筆者だけではあるまい。来れる、来れないの状況はどうあれ、現状確認、そして励ましの意を感じ取れる電話が消防本部からあるかないかは、天と地ほどの差がある。いわば、誠意の有無だ。

 警察と同様、消防も市民の安全を守るためにこそ、存在意義があろう。「今大きいのにかかわっているから、小さいのは自分たちでやれ」という姿勢だとすれば、論外ではないか。

 午前11時ごろになってようやく雨量が減り、自宅前の濁流も徐々に緩和されたため、かろうじて消防の力を借りずに乗り切れたが、所詮、それは結果論にすぎない。119番通報せざるを得なかった市民に、細心の心配りをする。それが消防に求められる姿であることを、大館市消防本部に再認識を促したい。