デスクの独り言

第99回・2011年11月17日

「あわてるでない」 

 「あわてるでない」。それだけでは何を意味するのか判りようもないが、この言葉の裏には1人の人間の生命を奪っていたに違いない、身の毛もよだつ事実が存在する。

 「あの医者にかかれば殺される」との噂が市民の間で絶えない内科開業医が、秋田北地方の市部にいる。今回紹介するのは、九死に一生を得て進行がんから生還した市民の話である。内科医を告発するのが目的ではないため、個人を特定できる表現は避けたい。従って、市民をAさん、そしてB医師としよう。

 自宅から徒歩10分ほどという利便性もあり、2011年時点で78歳のAさんは数年前から、B内科医のもとを「風邪をひいた」「体が痛む」といっては通っていた。しかし、前述のように「あの医者にかかれば殺される」の噂が絶えず、10年ほど前にはAさん宅から1軒置いた近所の婦人がその医師に通院し続けて命を落としており、家人もAさんに対して「近所の例もある。ろくなことにならないから、あの医院にだけは行くべきではない」と諭し続けた。

 ちなみに、1軒先の婦人は「胃の調子が悪い」と何カ月もB医師のもとへ通い続け、最後に「紹介状を書く」と言われて総合病院で検査をした結果、末期がんで手の施しようがなかった。ぎりぎりまで通院とクスリでつなぎとめ、手に終えない段階に来たら「紹介状」とともに放り出す。本来、「医」は「仁」であり、「金儲け」の手段であってはならない。診察の結果、重大な病気の可能性を感じたら、クスリなどでつなぎとめておかず、すぐに総合病院で精密検査を受けるよう促すのも責務ではないか。しかし、B医師はそうではない。とにもかくにも、つなぎとめる。それが「あの医者にかかれば殺される」と噂され続けている所以ではないか、と推察できる。

 前述の婦人と同様、それを如実に表すAさんの事例に触れてみよう。Aさんが腸のあたりに鈍痛を感じるようになったのは、2011年4月下旬。Aさんは、人間ドックの設備が整っているB医師に精密検査を望んだ。しかし、B医師は大名然と言い放った。「あわてるでない」。それから延々8月下旬まで、例によってクスリでつなぎとめた。無論、一向に改善する気配はない。

 「このまま通い続けたら、あの医者に殺されるぞ! 何度言ったら分かる!」と家人は、半ば強引に市内の総合病院で2日がかりの精密検査を受けさせた。案の定、腸閉塞を起こしかけている一刻の猶予もならない進行性大腸がん。破裂で大量出血するため、内視鏡すら中に通せない。Aさんと家族は地元総合病院以上に医療水準が高い弘前大学付属病院に入院、手術することを即刻決めた。

 しかし、同付属病院は人気の高さを反映して順番待ちの患者が著しく多く、入院すら容易にはいかない。同付属病院での綿密な検査の結果、腸閉塞による死の危険性を憂慮した同付属病院の外科医は、ベッドが空くまでの間、入院によって術前管理をしてくれるよう検査にあたった地元総合病院に要請。

 その甲斐あって、Aさんは9月13日から27日まで同病院に入院し、28日、同付属病院に移ることができた。2日後の30日、いよいよ手術。2時間待ち続けた家人を前に執刀医は、切除して野球グローブほどもある大腸の断面写真を別室で見せつつ、言った。「心配な点もありますが、無事に成功しました」。

 術後経過もまずまず順調との判断から、10月9日に待望の退院。あとは決められた日に通院するだけと考えていたが、そうはいかなかった。退院から1週間余経過した10月17日、Aさんを39度台の高熱が突然襲った。「何かあったら、すぐに電話をしてください」と退院時に告げられていたため、早朝に入院棟のナースステーションに電話を入れて運よく夜勤明けだった担当医に事情を説明したところ、「弘前まで来られるようなら、すぐに来てください。だめなら、地元総合病院の救急センターに向かってください」とのこと。Aさんが弘前へ向かうことを切望したため、熱で半ば朦朧としているAさんを励ましつつ、家人は何とかクルマで病院駐車場に滑り込んだ。

 しかし、助手席に座ったままの約80分の行程はAさんにとってかなりきつかったらしく、駐車場にたどり着いてもクルマの中から1歩も出ることができなかった。家人が病院入り口に備えつけている車いすにAさんを乗せて外来受付を済ませ、2時間ほどの点滴と数種類の検査の結果を担当医に告げられたころには、すでに夕方になっていた。

 「大腸付近に膿がたまっていて、全身にまわりかけています。調整してベッドを空けますから、即刻、入院してください」。Aさんはいったん帰宅することを望んだが、医師と家人が説得にあたり、渋々承知した。後にAさんが医師から聞かされたところでは、帰宅していたらその夜のうちに命を落としていたという。

 10月17日の入院から再び闘病生活が始まったAさんは、体に常時3-4本のパイプを埋め込まれ、膿が体内から完全に抜け切るのを一日千秋の思いで待ち続けた。点滴から食事に移行すると再び高熱が出るなど、病状は一進一退。なお悪いことに、ごく小さいながらリンパ節に新たながんが見つかった。「この程度のがんなら、来春までには叩ける」と医師に励まされ、2度目の退院にこぎつけたのは11月11日。

 退院後、家人に付き添われて同付属病院に通院するAさんは、ぽつりと言った。「(人生の中で)大きな寄り道をしてしまった」。「あの医者にかかれば殺される」との噂が絶えない内科医に通い続けていたら、確実に線香をあげられていたと考えると、身の毛がよだった。

 死と隣り合わせの患者に対し、「あわてるでない」と平気で言い放ったB医師。あの言葉の意味は、いかなる状態にあるのかを知りつつ、「手に負えなくなったら紹介状を書いてやるから、それまで待て」という意味だったのか。客観的にとらえても、そうとしか解釈のしようがない。今でこそ「長者番付」は発表しないが、かつて全県の開業医の中でも上位に名を連ね続けていた同医院の駐車場は、今も多くの患者のクルマで埋まっている。