デスクの独り言

第80回・2007年5月29日

ハチ公と映画

 昭和62年に公開された「ハチ公物語」のリメーク版が、ハリウッドで制作されるという。タイトルは"Hachiko a dog's story"。邦訳すれば「ハチ公 1匹の犬の物語」または「ハチ公 ある犬の物語」となろう。主演はハリウッドスターのリチャード・ギア。2007年5月下旬、つまりほんの数日前に日本に届いたホットなネタだ。

 ギアの役は、かつて仲代達矢氏が演じた上野博士と同様、犬の飼い主の大学教授で、9月に撮影が始まるという。ハチ公の生誕地、大館市ではハチ公の"ハリウッド・デビュー"に、驚きと喜びを隠せぬ様子である。確かに、天下のハリウッドをとおしてハチ公の名を米国民はもとより、世界中に知らしめるのは生まれ故郷に住む者にすれば、願ってもないことではある。まして、多くの作品の中で独特の存在感を誇ってきたリチャード・ギアは、ハリウッドきっての名優だ。

 とはいえ、このリメーク版でハチ公の存在を知らなかった米国民の多くは新鮮な感動を覚えるかも知れないが、日本人がその作品を通じてあらためてハチ公の存在に、強く心を揺さぶれることはないのではないか。なぜなら、大正時代の東京にハチ公が存在したという歴史的意味、そして日本犬であるハチ公を日本人である上野博士が愛し、博士亡き後も慕いつつ渋谷駅前で主人の帰りを待ち続けた姿、つまり日本独特の哀愁に似た"何か"が多くの日本人の心を打ったのではないか。だからこそハチ公は今も、多くの人々に愛されているのではないか。

 しかし、ハリウッドが「ハチ公物語」のリメーク版を作ろうとした場合、アメリカという日本とまったく異質の空間で、博士と心を通い合わせる犬が秋田犬でなければならぬ必然性は見当たらない。ゴールデンレトリバーであろうが、ブルドッグであろうが、セントバーナードであろうが何でもいい話で、犬種の必然性がない。「ハチ公」が秋田犬でなければならないのに対し、「Hachiko」が秋田犬でなくてはならぬ理由が、米国で作られる場合、どこにもないのだ。

 そもそも、この映画に関する発表内容からすれば、主人公は拾った犬と心を通わせるというコンセプト。米国で「拾った犬」が秋田犬という設定にするのは、いささか無理がある。なぜなら、アメリカにいるのはアメリカン・アキタで、純粋な秋田犬など皆無に近い。また、ハリウッドは"俳優"としての動物に高い演技力を求めることで知られる。専属のトレーナーも無論存在する。クランクインが今秋に迫る中で、この作品のために米国のトレーナーが、「1度憶えたら忘れないものの、憶えるのに時間がかかる」(大館市のベテラン秋田犬オーナーの談)という秋田犬を、日本から迎え入れて演技の稽古をつけているとも考えにくい。

 そうしたことを総合的に考えると、映画に登場する「Hachiko」は名前だけで、実際は別犬種あるいは「拾った」という設定からすれば雑種ではないかと思える。忠犬ハチ公は上野博士が拾ってきたのではなく、大館市大子内の斎藤義一氏が博士に寄贈した大切な犬であり、その過程においても重厚なドラマがあった。しかし、ハリウッドものは「拾った」犬だ。それだけでも、作品のコンセプトには大きな"ズレ"がある。ギア演ずる博士が何らかの縁があった大館の飼育者から、かつての上野博士のように秋田犬の子を贈られたのなら話は別だが、拾った犬にこじつけで「Hachiko」と名づけるとすれば、あまりに貧弱かつ陳腐な設定だ。「Hachiko」の名の必然性すらない。

 とどのつまり、こうあってほしくないことが一点ある。"Hachiko a dog's story"を鑑賞した後に、米国をはじめ世界中の映画ファン、犬ファンに、ハチ公の史実とかけ離れた観念やイメージを持たせるような作品にだけは仕上げてほしくない、ということ。出演する犬が秋田犬でないとするなら、本当のハチ公を知らぬ外国人は、日本に実在したハチ公は秋田犬だったなどとは誰も思わない。日本に存在し、多くの人々に今なお愛されていることも、外国の鑑賞者には伝わらない。ハチ公がハリウッド映画になるという理由だけで、日本人、とりわけ大館市民は手放しで喜んでいいのか?と、あえて疑問符を付したい。

 「天下のハリウッド」なのだから、作るなら史実を取材し直すという基本をきちんと押さえて真剣に作ればいいし、ただハチ公の名前を使った程度のリメーク版なら、作ってほしくはない。忠犬ハチ公は、厳然と日本人の心の中に存在する。まったく異なる脚色でハリウッドが巨額のカネを注ぎ込んで制作しても、「ハチ公物語」を超える作品になどなり得るはずはない。よしんば、「ハチ公物語」を手がけた松竹が制作協力をするとしても、である。

 最近、あるリメーク版のハリウッド映画を民放で観た。新鮮味など期待すべくもなく、日本の本作品を超えられぬどころか、模倣の域を1歩も出ておらず、こじんまりとまとまった作品にしか思えなかった。かつて役所広司氏が主演した「Shall we ダンス?」のリメーク版で、リチャード・ギアが主演した「Shall we dance?」。

 模倣こそがリメーク版だ、と言われてしまえばそれまでだが、意義のある作品を時を越えて復活させるのだから、リメーク=模倣にとどめていいはずはない。まして、相手は世界の映画の中心ハリウッドだ。興行成績だけを重視するのではなく、それなりの責任というものがなくてはならない。

 何であれ、本作品を超えるリメーク版などそうそう作れるはずはないのだが、ほかの犬ならともかく、この土地(大館)の誇りであるハチ公のことなので、日本人に根づいているハチ公像を湾曲する作品にだけはしないでほしい、と切に願う。