デスクの独り言

第78回・2006年11月18日

母に残した言葉

 大仙市の保育園児、進藤諒介ちゃん(4つ)が暴行を受けて死亡した事件は、母親の進藤美香容疑者(31)とともに逮捕された県立大館高校非常勤技師、畠山博容疑者(43)=大館市十二所一の地75=の動向に対し、家族は無論、畠山容疑者と交流があったり知る人々は、日々流れる報道に釘づけなのではなかろうか。中でも親しい友人、知人などは家族と同様、「無実であってほしい」と切望していることであろう。

 そうした中、畠山容疑者を取り巻く状況は180度反転する様相をみせ、無実を願う人々に一抹の期待をいだかせようとしている。同容疑者の弁護団はきょう18日、「畠山容疑者は子どもを殴りはしたものの、こぶができる程度」とし、殺害には関与していないとするコメントを出した。

 同容疑者は、こぶができる程度に殴った後に大仙市北楢岡の道の駅「かみおか」で進藤母子と別れたと、弁護士に伝えている。真実を語っているとすれば、13日朝に大館署員とともに家を出る前に母の令子さんに言い残した「自分は何もやっていないし、これは何かの間違いだ。心配することはない」という言葉が俄然重みを増してくる。

 大切な命が奪われた今、当コラムとしては容疑者の側につくわけではないが、「黒」が「白」になりかねぬほどの急展開は無視できず、また、「あの人は無実であってほしい」と願う多くの人々の気持ちはきわめて重要と考える。

 あくまで、畠山容疑者が弁護士に対して嘘偽りのない真実を語っていればのことだが、まったく聞き分けのない子を懲らしめる意味から、「知らぬ仲ではない大人」がゲンコで子どもを殴ることは、さほど珍しくはない行為といえる。無論、程度にもよるが。

 その行為の後、同容疑者が進藤容疑者と別れて帰途についたとすれば、殴った行為は単なる「懲らしめ」の範疇で、暴行容疑で起訴できるかどうかも曖昧になってくる。殺害も進藤容疑者による単独犯行という構図が浮上してくる。

 たが、理解に苦しむ点もある。仮に、こぶができる程度に殴ったにすぎないのなら、なぜ畠山容疑者は逮捕当日の13日にその旨を洗いざらい取り調べ担当刑事に伝えなかったのか。そうすることで家族は今ほどの苦しみは避けられたろうし、彼を知る多くの人々も「やっぱり殺人にかかわっていなかった」と安堵する。

 然るになぜ、逮捕から6日も経ったきょうになって彼は弁護団に、「こぶができる程度に殴っただけ」と明かさせたのか。進藤容疑者を思うあまり、自分の考えを整理するのにそれほどの時間を要したのか。あるいは、苦し紛れの出任せなのか。殺人者であるのと、無実の人間であるのとでは、その差は計り知れぬほど大きい。

 こうなると、引くに引けなくなるのが県警だ。一貫して、容疑を大筋で認めている=殺人共謀、の流れで捜査、取り調べをしてきており、「実は白だった」ということになると、「逮捕ではなく参考人として呼ぶだけで十分だったのではないか」との批判も出かねない。

 もし無実であった場合でも、世の中の人間の少なからずは釈放後も畠山容疑者に後ろ指をさし続けたり、色眼鏡で見続けることになり、社会的生命の完全回復は困難だ。世間はそれほど包容力のあるものではない。また、警察にも社会的生命を回復させられるだけの力や意思は、到底ない。疑いが晴れたら解き放つのみである。だからこそ、逮捕するという行為は、警察も本来、よほど腹をくくらなければできぬはずなのだ。

 もし畠山容疑者が殺害に関与していないことが確定したら、県警は彼の人生を台無しにするという、つぐないきれぬ"罪"を犯したことになる。また、藤里町の2児殺害事件で批判を浴びた県警としては再び苦しい展開を強いられ、弁護団に"抗戦"しなければならなくなる。そうした意味で、引くに引けなくなるのである。つまり、たとえこぶができた程度でも傷害罪で起訴できなければ、完全に無実の人間を「早合点して引っ張った」ということになる。

 畠山容疑者が母に残した言葉、「自分は何もやっていないし、これは何かの間違いだ。心配することはない」は、真実か否か。それは2人の容疑者だけが知っている。進藤容疑者に畠山容疑者を思いやる気持ちがあるなら、いずれ真実は浮かび上がって来よう。

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