デスクの独り言

第71回・2006年1月17日

愛される郵便局

  郵政民営化の準備段階として、今月23日には日本郵政株式会社が発足するが、民営化とともに郵便局は否応なく民間企業などとの熾烈な競争下にさらされる。「お役所」の意識でい続けることが、許されるはずはない。ただ、大館郵便局を見ていると、職員らは本当に民営化と同時に頭を切り替えることができるのだろうか、と思ってしまう。そこで今回のコラムでは、同郵便局の姿勢に対して少しばかり苦言を呈する。「変えなくてはならない」という意識があるなら、民営化に向けた反省材料にしてほしい。

 まず、今月発生したばかりのある出来事から一石を投じてみたい。読者の皆さんと同様、年賀はがきを投函した。その中の10枚は、どの程度までが可能な範疇かを日本郵政公社に直接確認して、年賀はがきと原寸の写真を裏面に貼って投函した。「剥がれないようにしてもらえればいいです」という郵政公社の助言を真摯に受けとめ、糊付け後、一定の時間重しをかったため、「これなら大丈夫」との自信があった。

 ところが、その中の1枚が元日の投函から2週間経った今月14日夕方、郵便受けに放り込まれていた。何と、貼り付けたはずの肝心の年賀はがきは影も形もなく、あったのは差出人名と住所を印刷した写真だけ。あれだけしっかり貼ったのに剥がれてしまったかと、そのときは残念に思う程度だった。写真に直接書き足した文面を読むと、宛先は大館市内の個人。

 時間の経過とともに、大館郵便局に対して釈然としない憤りのような感情がふつふつと沸き起こった。疑問点を簡単に整理すると、こうなる。なぜ元日に投函したものが、2週間も経って戻って来たのか。ほったらかしにされていたのか。剥がれたということは、裏面に何も記載されていない、糊でべたつく年賀状を、何とも思わずに相手方に配達したことになる。局内で整理をしているとき、あるいは配達の時点で、局員は不自然とは思わなかったのか。まず初めに、どれかとどれかが剥がれたらしい、双方を見つけなくては、と局内で作業をしながら責任意識が芽生えないのか。たとえ、いかに大量の扱い枚数で忙殺されていたにせよ、1枚1枚には送る側の気持ちが込められている。中で作業していた者たちや配達員は、不自然な状況にまったく神経を注ぐことなく、半ば機械のごとく動いていたことになる。

 そして、最も釈然としないのは、2週間もの間、剥がれた写真を局内に保管しておきながら、「剥がれてしまったらしいのですが、どうしましょうか」という連絡すらないばかりか、配達員もまた配達の際に呼び鈴を押して説明するでもなく、ただ無機質に郵便受けに投げ込んで行ったとしか解釈できない点だ。

 翌15日、事情を聴くべく大館郵便局郵便課に電話を入れると、男性職員が出た。状況をかいつまんで説明した。職員は「大変申し訳ありません」を連発した。「責任を取ってもらおうとは思っていないし、その必要もありません。ただ、当の配達員から直接聴きたいのです。何の説明もなく、剥がれた写真をただ郵便受けに放り込んで行った、その認識というものを。場合によっては、配達員としての資質が問われます」とだけ切り替えした。やり込めればキリがないため、その点に絞った。職員は配達員の名を教え、「すぐに出向かせます」と言ったが、「その必要はありません。電話で釈明させてください」と返し、すぐに電話をかけさせると約束した職員の名も控えて受話器を置いた。

 結局、その日のうちに連絡が入るどころか、3日目の現在も配達員からは何一つ連絡はない。そればかりか、翌日には何事もなかったかのように郵便物を配達して行った。そこから何が浮き彫りにされるか。1人の局員として以上に、局全体としての不誠実さ、であろう。心ない者が組織の中にほんの少数でもいれば、全体に対して悪い印象を持たれる。

 この1件だけなら、仕方がないか、で済ませる。実は、指摘しなくてはならないことはほかにもある。ある配達員などは、配達の時間中、郵便局の赤いバイクを四方を住宅やアパートに囲まれている空き地に置きっ放しにし、日常的に血縁の家に寄って油を売っている。これが民間企業の社員なら、傍が目くじらを立てるほどではない。だが、日本郵政公社法では、配達員を含む職員はれっきとした国家公務員である。つまり、国民の血税で暮らしているということだ。

 にもかかわらず、同配達員はもう何年も配達時間中にサボり、周辺住民からも「また、油を売っている」と失笑を買っているのだが、局に事実は届かない。いずれ自分で自覚してやめるだろう、と周囲が寛大な目で見、誰も告げ口などしないからである。

 しかし、当の配達員はそうした周囲の気持ちには気づいておらず、ほぼ日常的に空き地に赤いバイクを止めて、油を売っている。それだけ配達は遅れ、首を長くして郵便物の到着を待っている人にとっては多大な迷惑を受けることにもなりかねない。配達員の公務員らしからぬ行為が大館郵便局のイメージ、ひいては郵政公社のイメージさえも損ねているのを、配達員自身が気づいていない。つまりは、国家公務員としての資質が欠落しているのである。換言すれば、なるべきではない人が、国家公務員になってしまった、ということだ。国民の立場からいわせてもらえば、これは無価値以外の何ものでもない。

 このほか、郵便局の赤い車で前の車両をあおった挙句、ウインカーも点けずに勢いよく右折していった、交通マナーがまったく欠落している局員も見かけた。

 さらに、外国企業に急ぎの郵便物を大館市内の特定郵便局から送ったところ、待てど暮らせど届かない、と連絡が入った。どのようになっているのか知る方法はないか、と同局の局長に訊ねた結果、局長はどこに確認するということもなく、「日本からは無事に出たはずですよ」と放ち、追跡システムを使えない通常郵便物として送ったあなたが悪い、という意味合いのことを言った。

 郵便物が届かないことを申し訳なく思ったり同情するどころか、局長の口ぶりは横柄ですらあった。この局長は、窓口の職員には客へのあいさつを徹底させているようだが、当の本人は常に客が見える位置に座っていながら、客に対して「いらっしゃいませ」や「ありがとうございました」とは、まず言わない。「私は局長だ」という驕りが、郵便物不着事故に対しても横柄、傲慢な態度として表れている。

 これらの1個、1個について追及しようとしているのではない。いずれ民営化されると、局員らは「地域に愛される、1人ひとりの利用者に愛される郵便局にするには、どうすればいいのか」という難題に突き当たる。官の意識のままではだめだ、ということもすぐに思い知らされる。

 普通郵便局、特定郵便局、簡易郵便局の大小にかかわらず、局長をはじめ局員1人ひとりが今からしっかり意識改革をしておかないと、激烈な競争の渦に大館郵便局などひとたまりもなく飲み込まれかねない。生き残るために、まずは個々の利用者を心から大切にする。そこから始めてもらいたい。 それが、急がば回れの「愛される郵便局」への道である。