デスクの独り言

第70回・2006年1月13日

もう一つの物語

 秋田犬の物語は忠犬ハチ公があまりにも有名だが、もう一つ、世の中の誰も知らない物語が秋田県大館市には存在する。命の危険を顧みず、秋田犬を絶滅の危機から救った男たちの実話である。その生き証人も今では、1人だけになってしまった。「このことは、後の世に記録として残しておくべきなんだが…」と、70代半ばのその方は言ったが、そのメドが立っていないため、その方からの聞き書きにより、実話のあらましをご紹介したい。

 敗戦色濃い太平洋戦争末期、兵器の材料となる鉄類が底をつき、ありとあらゆる所から金属に転用できる材料がかき集められた。JR大館駅前の広場に位置するハチ公像も、台座だけ残して撤収された。そしてまた、犬も皮を兵士の防寒コートや軍靴の材料にすべく片っ端から集められていた。ただ、シェパードだけは軍用として重宝がられていたため、別格の扱いだったらしい。

 昭和6年に日本犬で最も早く天然記念物に指定された秋田犬も、徴集の例外ではなかった。当時は一部の富裕層などを除けば日本全土が著しい食料難で、犬を飼育できるほどの余裕がある家は大館市でも限られていた。秋田犬の本場ですら秋田犬の数は決して多くない中で、一気にその数は減り、ついには赤のメスがほんの2頭残るだけとなった。発祥地でもそうだったのだから、当時、全国にはもはやどこにも秋田犬はいなかったと推察できる。

 残る2頭の名は、事情により、公表はいずれかの機会に譲りたいが、暮らしていたのはまぎれもなくハチ公の生家。10代半ばの少年だった前述の生き証人は、当時も今もハチ公生家から徒歩5分ほどの所に住んでおり、2頭のうちの1頭の散歩をよく買って出た。

 いずれその2頭はほかの犬と同様、徴集されて、なめし皮にされる。そうなると、秋田犬はこの世から完全に途絶え、ハチ公の存在すら無に帰しかねない。秋田犬発祥地の誇りとして、秋田犬が絶滅する危機だけは何とか回避しなくてはならなかった。といって、戦地に赴く兵士たちの外套などとして貴重な物資となる犬の中で、秋田犬だけがシェパードと同様に特別扱いされるはずはない。ハチ公生家と、事態を危ぶむ周囲の者たちは悩み抜いた。

 「絶対に殺させるわけにはいかない。山奥でこの2頭を守ってくれないか。すべての責任は私が持つ」。それがハチ公生家の主(あるじ)の決断だった。依頼を受けたのは、山奥に小屋を持っていた炭焼き人だったという。

 大館(当時の北秋田郡下川沿村)生まれのプロレタリア作家、小林多喜二は拷問を受けて獄中死した。多喜二の場合は思想背景があるが、それとは根本的に異なるにせよ、国に背いて秋田犬を山奥でかこったことが憲兵に知れれば、やはり「非国民」として拷問を受け、最悪の場合は多喜二と同様の末路をたどったかも知れない。たとえハチ公生家の主が「すべての責任は私が持つ」といっても、万が一、炭焼き人が信頼の置けぬ者、あるいはほかに事実を知る者が憲兵に密告したら一貫の終わりだったはずだ。

 だが、炭焼き人は戦争が終わるまで、山奥でじっと息を潜めて2頭を頑なに守り通した。身の危険に対する恐怖は常にあったろう。「すべての責任は私が持つ」。その約束は計り知れぬほど重いが、見つかれば自分は無論家族にも難が及ぶ危険があったわけだから、双方によほどの信頼関係がないとあり得ない。そうした意味では、この実話は映画化、ドラマ化されても「ハチ公物語」に匹敵するほどの壮絶な内容を持っているといえる。

 やがて日本は敗戦を迎え、2頭の秋田犬は生家に戻る日がやって来た。しかし、2頭はメスで、オスはもうどこにも存在しなかった。なめし皮にされる危機から何とか逃れたものの、このままでは秋田犬の血が途絶えてしまうことに変わりはない。苦渋の決断。「シェパードと交配して、血をつなぐしかあるまい」。そこに礎を託しながら、脈々と秋田犬同士で交配を重ね、ようやく今の姿に回復させたのである。