デスクの独り言

第100回・2011年11月24日

風雲児、逝く 

 立川談志さんが21日に75年の生涯に幕を下ろしたニュースは23日、全国を駆け巡った。NHKをはじめ各局がトップで扱ったことは、存在感の大きさを物語っている。落語界の風雲児であったとともに、「巨星」だったと評しても過言ではなかろう。談志さんの冥福を祈るとともに、ほんの少し彼の人となりをうかがわせる"出来事"を取り上げてみたい。

 同コラム筆者が大館市内に本社を置く別の新聞社に籍を置いていたころ、談志さんと膝を交えて話したことがある。昭和55年1月15日。市内のホテルが開いた寄席の「新春特別公演」のトリとして、彼は招かれていた。公演後、ホテルを通じてインタビューを申し込んだところ、あっさりと応じてくれた。「気むずかしい人」という先入観からか、どうせだめだろうと思っていただけに、意外だった。

 ホテルの名が上から下まで刷り込まれた浴衣一枚でくつろいでいた談志さんの傍らにいたのは、古くからの友人だという初老の男性。当時、その男性は県内の民放テレビにたびたび出演しており、少なくとも県内では有名だった。

 出し抜けに、談志さんは言い放った。「俺とこうして会えるのは、お前さんが新聞記者だからだよ」。切り返してみた。「ホテルの一室にわざわざ出向いてきたのは、立川さんが有名人だからです」。すると、彼は苦笑しつつ「そうだな」と言った。

 30分ほどのインタビューだったと記憶している。それまで俳優や歌手、タレントなどにインタビューしてきたが、「記事が載ったら、送ってくれよな」と言ったのは談志さんだけだった。インタビューから3日後の18日。記事が記者名入りで載った。その日のうちに、あらかじめ聞いていた談志さんの住所に郵送した。

 無論、新聞を送ったことに対する礼の文(ふみ)が来るなどとは、思ってもいない。しかし、記事すら忘れかけていた約1カ月後、談志さんから記者個人宛てに予期せぬ手紙が届いた。

 前略 写真、記事 ありがとう。印度に行ってきました。帰って返事を書いています。24日よりアメリカを廻って来ます。又の機会にゆっくりと話等々。今後共よろしく まづは右、ごあいさつ。1980.2.19

 A4判、飾り気のない黄一色の紙に、サインペンのようなタッチで力強い短文が躍っていた。ずいぶん律儀な人だ、と思った。近況までしたためてあるのに驚くとともに、もう2度と会う機会などないと知りつつ、「又の機会にゆっくりと話等々」とまで付け加えていたことに、「毒舌家で通っている談志さんは、本当は心配りの豊かな人なのではないか」との思いに駆られた。

 手紙をずっと保管していた。「談志さんは、きっと人間国宝になるに違いない。その時は、手紙、封筒、記事を額に入れて壁に飾ろう」。内心そう思いつつ、31年が経った。誰にも見せることがなかった手紙。あらためて読み返すと、「すごい人から、もらったんだなぁ」としみじみ思う。落語界は「談志の前に談志なし、談志の後に談志なし」であろうことに疑いの余地はないだけに、"偉大な人"の突然の他界は何とも残念である。合掌。

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立川談志さんから届いて31年が経った手紙